初めてそう思ったのは、小学五年生のときだ。学年集会後の自習のとき、机に広げていたアクセサリと雑誌を没収されていた。
自慢げに見せていたリョウコちゃんはふくれて、周りの子たちはなぐさめた。私は、引き出しの中で広げていたマンガ雑誌を急いで閉じた。以後、学校にそういったものを持って行くことはなかった。
中学に上がってからも、リョウコちゃんは先生や先輩から目を付けられる存在だった。
なんといっても、間が悪い。私にはそう見える。もっと上手くやればいいのに。授業をサボるにしても、原チャリに乗るにしても、タバコを吸うにしても。リョウコちゃんばかり、たしなめられる。
私が属しているグループは、確実にリョウコちゃんとは層が違っていたから、年を重ねるごとに接点は減っていった。それでも登校のバスが重なれば挨拶するし、機会があれば相席した。
万引きしたという安い本をつかまされ、ピアスをつかまされた。避妊具もあった。私はそれを返さなかった。
メールを交換するようになってからは、バス以外のところでも時々会った。主に、リョウコちゃんのグループに交ざるかたちで。
私が属しているグループのみんなは、それをひどく嫌がった。
でも、付き合いをやめようと思ったことはなかった。
どうしてだろう、わからない。髪を染めたいとも、万引きをしたいとも、ピアス穴を開けたいとも、思っていなかった。
きっと、息苦しかったのだと思う。
リョウコちゃんは、とても自由に見えたから。
その息苦しさから抜け出したいと強く感じるようになったのは、中学三年のときだ。
グループの子たちと仲良く同じ志望校で埋めた進路希望を、提出できなかった。どうして同じところを受けなくちゃいけないんだろう。その疑問は大きく強く、私の手を縛り付ける。帰りのバス停のベンチから、立ち上がる力を奪うほどに。
「一本どう?」
私の顔を上げさせたのは、いつのまにかバス停に来ていたリョウコちゃんだ。
私は一度たりとも、リョウコちゃんから受け取ったものを使ったことはなかった。
でも、そのとき初めて手を差し出したのだ。
渡されたそれは、熱を伴っていた。
高校は地元を離れた。仲良しグループとも離れた。
同じ中学から進学した人なんて、ほとんどいなかった。
リョウコちゃんも地元を離れたらしい。
私も部活に入って、高校ならではの本格的な内容に忙しくなった。
しがらみだと思っていた仲良しの友人たちともリョウコちゃんとも離れた私が、果たして自由に振る舞えたかはわからない。ただ、自分でタバコを買う知恵も度胸もなかった私は、いつかリョウコちゃんに貰った二本だけ入った箱をお守りのように持ち歩き、心のどこかでメールが来ないかと期待していた。
一年の終わり頃だ、変化があったのは。
ふと思い立って、日曜の部活をサボって隣町へ行った。
リョウコちゃんから教えてもらったことがある。どうやって万引きをするのか。どんな店が狙い目か。時間帯、店員の様子……。
別に、盗ったりなんかしない。
ちょっと商品に触ってみるだけ。
鞄に入れるふりをして、戻すだけ。
なんだ、本当に……あっけない。
小さな書店へと入った。いかにも町の書店といった趣で、入り口が狭く奥行きが結構ある。雑誌コーナーが、レジから見えていない。
暖房が利いていて、コートの前を開けた。
私は一冊を手に取って――本当に、本当に無意識のうちに――コートの内側へ、それを入れた。
「ゆっぴー、なにしてるの」
声をかけられたとき、どんなに驚いただろう。
肩を跳ね上げ、背筋を伸ばし、目を見開き、それでも声を上げることだけは、こらえることができた。
その声は、副担任の市村先生のものだった。
振り返ると、メガネをかけてエプロンをした姿で立っていた。
「先生こそ、なにしてるんですか。ゆっぴーって私のこと?」
なるべく自然な感じを装った。
でもそれって、意味、あるんだろうか。
いや、見られてない、かもしれない。
「ここでは、先生ってことは内緒にして」
急に距離を近づけてきたかと思うと、私の脇のところを軽く叩いた。そこには雑誌が挟んである。
「先生はバイトしちゃいけないからね」
ひそめた声。
やっぱり見られていた。
私は逃げるようにして書店を後にした。それから駅についてやっと、雑誌を持って来たことに気がつき、それをゴミ箱へ捨てた。
すべて衝動的だった。手を放した瞬間に後悔はやってきたけれど、もう遅い。謝りに行けば良かったのに。
翌日、先生は何の接触もしてこなかった。
リョウコちゃんの顔が浮かんだけれど、メールのやり取りは一年くらいしていない。ソーシャルでも繋がっていなかった。
代わりに、リョウコちゃんのグループで仲良くしていたルミにメールを打った。笑い話にして欲しかった。けれどもルミからの返事はそっけなく、私は慰められなかった。
だからだろうか。
翌週も、あの書店へ足を運んでいた。
市村先生は、やっぱりいた。メガネをして、エプロンをして。暇そうに、店番をしている。
「せんせえの、家、なんでしょ、ここ」
先生ということは内緒にしておいて、と言われたけれど、どう呼べばいいかわからず、私は曖昧な発音で話しかけた。入るときに気がついたのだ。外の看板に、市村書店とある。
私をカウンターの中に入れてくれた先生は、エプロンを着せてくれながら笑った。
「よくわかったね」
「別にバイトじゃないじゃないですか」
「おれにも非があるってことにすれば、ゆっぴーの気が楽になるかと思って」
「ゆっぴー、ださい」
「じゃ、ユリちゃん?」
私は振り返って、先生の胸をどんと押した。
「ゆっぴーでいい」
何か罰があるのかと覚悟していたけれど、そんなことは一切なかった。先生は、学校のときよりも柔らかく笑い、時間にルーズで、おしゃべりだった。今まで会った誰とも違うその調子に、私はバランスをどんどん崩していった。
春休みは部活に励んだけれど、次の大会のレギュラー候補にもなれず、夏を前に退部した。日曜は度々サボって先生のところへ行っていたし、まあ、当然の報いだろう。
先生とは、別に何もない。進展があったとすれば、私のこの気持ちだろう。同じカウンター内にいるとたまらなくなって、手を握ったりしてしまう。先生は握り返したりしない。もちろん、払いのけることも。
期末テストが終わった頃、ルミを含め、そっちの友人たちと集まった。
部屋を提供してくれたのは、大学生の女の人。なんかやばいのかな、と思ったけど、そのときはもう部屋に入ってしまっていたし、メンバーは女ばかりだ。
髪を染めず、ピアスを空けていない私はとても珍しがられた。
でも中学から私を知る子も数人いるから、問題なし。
リョウコちゃんもいた。
ピアス穴はパスタが通るくらいになっていて、一見きれいな明るく長い髪は、安いTシャツみたいな触り心地だった。
みんな、彼氏や、身体だけの関係の相手がいて、その話題ばかりが続く。
写メもたくさん見て、どれが誰の思い出なのかわからなくなっていく。
電話番号とソーシャルのIDを交換して、初めてまともにアルコールを摂った。
加えて久しぶりのタバコ。
むせかえってくるのは、罪悪感だろうか。
いや、違う。だって、美味しい。目が覚める。頭がクリアになっていく。
じゃあ一体、どこから来る罪悪感なのだろう。
わからないままに、誰かの口紅がついたグラスを傾け、ルミに身体を触られながら、知らない女の子と吸いかけのタバコを交換した。
罪悪感の正体が先生だと気がついたのは、知らない部屋で朝を迎えたときだった。
先生は、タバコを嫌っている。
書店はいつもきれいな空気で、私は何度かタバコを吸いたい衝動をこらえた覚えがあるから。
今日は、日曜日だ。
服を整えて、荷物を確認する。
みんな寝ているから、そっと忍び足で部屋を出た。
三階建ての小さな木造アパート。廊下と階段がむき出しで、きっと雨の日なんかたまらないだろう。交差点にコンビニが見えた。あそこまで行って、肉まんでも買おう。
そう思って、マンションの階段を下りていく。
すると不意に、リョウコちゃんの声がした。
「なんで――今日って言ったじゃん」
電話をしているようだ。
「約束したのに、ばか、何回目だかわかってる? 知らない、知らない。もういい」
階段下の自転車置き場にある、適当な自転車に腰掛けて、リョウコちゃんはケータイの画面を見つめていた。
「おはよう。彼氏?」
私は声をかけながら、たしか昨日、写メを見せてもらったはずだと記憶をたどる。年上というか、おじさんだった。そう、グリーンのカーディガンを着ていて、それを周りからからかわれていたっけ。
「ケンカしたの?」
思い出したところで、私は質問を重ねた。
「忙しいんだって。前から約束してたのにさ、だめだって言われてさー、むかつく」
「家に押しかけちゃえば」
「奥さんがいるから」
リョウコちゃんはつぶやくと、うんと身体を伸ばし、私を振り返った。
「ユリ、帰るの」
「あ、うん」
「ふーん、またね。ばいばい」
リョウコちゃんは手を振って階段を上がっていった。
奥さんがいるから。
さらりと出た言葉の意味を理解しているうちに、その細い背中は扉の中へと消えた。
それから電車に乗って先生の駅で降りたけれど、すぐに引き返して家に戻った。
いままで気にしたことなんか、なかったのに。
息が、臭い。髪からもタバコのにおいがする。
急いでシャワーを浴びて歯を磨き、新しい下着をつけて、ブローする。先生の前でははいたことのないスカートを選んで、キオスクでガムを買って、それを噛みながら書店へ向かった。
「市村せえんせ」
レジにいる先生に声をかける。
「お、今日はなんかいつもと違うね」
「わかる?」
「代わり映えのないエプロンで申し訳なくなる」
先生は当然のように、私にエプロンをつけてくれる。
過去の、リョウコちゃんにもらった盗品のことは、すべて話してあった。その金額分、手伝わせて欲しいとも。先生は断ったけれど、それで気が済むのならと最終的には認めてくれた。
本当に償いたいという気持ちがあったかなんて、どうでもいいことだ。
私はそういう理由でここに来ている、というのは事実。
二時間くらいお手伝いをして、時々、ハンバーガーをごちそうになる。
それだけ。
なのに、バランスが取れなくなっていると感じる。どんどん、足下がおぼつかなくなる。
学校にいるときの私、ルミたちといる私、リョウコちゃんの前での私、先生といっしょにいるときの、私。
先生と、もっと一緒にいたい、私。
もっと。
先生は結婚していない。
だから……。
ここは、学校じゃない、から……。
めまいがする。感情が、傾いていく。私は、リョウコちゃんとは、違う。でも、同じ学校の男子たちの噂話をしているみんなとも、馴染めない。
それは目の前に、先生がいるからだ。
傾斜は強くなり、やがては倒れていく。
本を整理する先生の背中に、――
吸い込まれるようにして、倒れていく。
それから一ヶ月も経たないうちに、私は先生の背中に何度も触れ、機会があれば肌に唇を寄せた。
それを先生は何度も拒み、もう来ないほうが良いと言った。エプロンもつけてくれなくなった。
わかってる、これは、世間的には悪いことだもの。でも、どうしようもなく倒れていくこの身体を支えられるのは、先生だけ、なのだ。支えを失ったら、きっと今度こそ、立ち上がれなくなってしまう。
私は先生の忠告を無視して通い続けたけれど、反対に、学校では接しないように細心の注意を払った。なるべく遠くにいるように、視線を合わさないように、言葉を交わさないように。
同時に、みんなとの会話のなかに先生が出てくると、ひどく嫉妬したものだった。
特に、クラスいち清純派で通ってる、あの子。
きっと先生に憧れている。頭のなかではきっと、モザイクな妄想だってしているだろう。
あまり積極的ではなさそうだから、手を出さないだろうけれど、そんなに熱っぽく、先生を見ないで。優しい先生は、笑い返すに決まっているのだ。その顔に泥を塗ってやれたなら。
ある日の朝、授業前に興奮が収まらず、誰かに話したくてケータイを開いた。好きすぎる、先生。でも話す相手が思い浮かばない私は、ソーシャルに言葉をぶつけるしかなかった。
すると、先生、という文字が目に飛び込んできた。
>生徒と先生で?
どきっとした。
でも、違う。私は先生なんて単語は一切使ってないもの。
ゆっくりと、タイムラインを追いかける。他の子たちの文字を、でたらめに。
>先生と付き合ったこと言うなんて、リョウコもバカだね。
ルミの投稿だった。
十分前。
私はあわててリョウコちゃんの投稿を探したけれど、リョウコちゃんのIDはすでに無くなっていた。
とっさに教室を出て、電話をかける。
出ない。
代わりにルミにかけて話を聞いてみると、このあいだの写メが学校側にバレたのだそうだ。
あの緑色のカーディガンを着た人は、リョウコちゃんの通う学校の先生だったんだ。同じ学校の子たちはあの場ですぐにわかったのだ。当然か。もちろん、妻子があることも知っている。
「リョウコはしばらく学校に来ないみたい。先生も会議。しばらく来ないっぽい。いまは自習だよ」
つまり教室で電話を受けているということだろう。
そのとき私は、何か、心の中がすっと静まりかえるのを感じた。先生へ引っ張られていた何かが、ぷつんと切れたのだ。はっきりとわかる。
リョウコちゃんのようには、なりたくないもの。
昔からリョウコちゃんは、いろんなころを教えてくれる。
次の日曜日、私は先生のところへ行って、いままで働いた分の時給を計算してもらい、十分に働いたかの確認を取った。そんなこと、本当は必要なかった。私は、必要以上に通ったのだから。でも、たしかめたい気持ちがあった。私は本当に、あの小さな書店で先生と会っても、バランスを崩すことはないのか。
そんな私に先生は、何かを感じたかもしれない。ハンバーガーを食べに行くかと、久しぶりに誘ってくれたのだ。
でも、私は断った。
笑顔で、断れたと思う。
その帰りの電車で、ルミに聞いたリョウコちゃんの新しいIDにフレンドの申請を送った。
何かコメントを添えたかったけれど、何も思いつかない。なんだかありがとうって気持ちなんだけど、それは明らかに変だし。なんだろう。大変だったね、とか?
迷っているあいだに、申請が通り、コメントが送られて来た。
>もーさんざんだった! 奥さんに刺されないようにしなきゃ
いつも通りのリョウコちゃんに、私は思わず声を上げて笑った。
>リョウコちゃんみたいには、なりたくないな〜