手のなかのポラリス

 天川めぐりのやることは、すべて、おれを試しているような気がしてならない。否定されている、と感じることすらあるくらいだ。
 しかし攻撃的なわけでは決してなく、すくなくとも表面上はおとなしい。学校の休み時間などにすれ違っても、わからないくらいに目立たない。まるで、水面を揺らすことなく潜水しているかのように、静かだ。
 アーモンド型の比較的大きな瞳や、薄い唇から発せられる言葉、よく陽に焼けた長い腕など、人間であれば雄弁であろう箇所は、いつも黙している。
 彼女が発する訴えは、水の中でしか感じられない。
 そして一緒に泳いでいるとき、おれは手足の自由を奪われたようになってしまう。

*

「一位、天川、二位、大洋!」
 あー、ちくしょう!
 また、負けた。
 呼吸が乱れているので、舌打ちすらできない。隣のコースではゴーグルを外した天川が、プールサイドでストップウォッチを確認している諸星を見上げている。
 その表情にはどこか喜びが混じっているような気がしたが、おれと目が合うとさっと口を閉ざしてうつむいてしまった。
 なんだよ、おれの前じゃ喜べないってのか。
「これで、全種目終了だな。二人とも、去年より伸びてるよ」
 水泳部顧問の諸星は嬉しそうに言う。
 まあ、これは当然。身長が十センチも伸びたんだから、タイムも良くなってないと嘘だ。
「……今日はもう終わりだな」
 なにげなくつぶやいたつもりが、投げ捨てたようになってしまった。
 おれはそのことで、更に胸の中を悪くする。取り繕う気分にもなれず、逃げるようにして水から上がってタオルを取り、シャワーを浴びて更衣室へ行った。
 まだ六月の中旬。
 梅雨の合間を縫ってのプール開きで、水温も低い。普通の公立中学だから、温水なんてものはないし、去年の夏に先輩たちが引退してからというもの、部員はおれと天川の二人だけ。二年だから、今年が最後という緊張感もない。
 けれど、気楽ではなかった。
「あ、大洋くん……」
 着替え終わって更衣室から出たとき、まだ水着姿の天川が立っていた。女子更衣室に入るところなんだろう。
「あの、鍵、返しておこうか。ついでだし」
 水泳キャップを外した天川は、背中までの髪を、ひとつにまとめて右胸に垂らしていた。ふくらみに張り付いた髪から水が滴り、足の指先を濡らしている。
 そこまで辿って、おれは、はっと顔を上げた。
「じゃ、よろしく」
 男子更衣室の鍵を放り、天川が慌てて手を伸ばす仕草を見届けることなくすり抜ける。
 思い切り唇を噛んだ。
 近くの階段を駆け上がり、そのままの速度で新校舎の屋上へと飛び出す。
 くっそ、むかつく。
 水の中で大胆な泳ぎを見せる天川は、陸の上ではまるで別人のようにおとなしい。
 あんな、水の抵抗を易々と受けそうな身体をしているのに。身長だって、おれのほうが高いのに! どうして、勝てないんだろう? 夏休み前に行われる水泳大会のことを思うと、気が気ではない。種目のひとつであるクラス対抗リレーは、絶対、おれと天川のクラスの一騎打ちだし、つまりそれは、アンカーであるおれたち二人の一騎打ちということになる。
 女子にアンカーを任せるクラスもかっこ悪いと思うけど、同じ水泳部女子に負ける水泳部男子は、もっとかっこ悪いだろう。
 ガシャン!
 音を立てて屋上のフェンスへ飛びつく。
 汚いベンチとバスケットゴールがひとつあるだけの屋上は、日差しの強いこの季節になるとひとけがない。じりじりと音が聞こえてきそうなほどの白い光が肌を焼く。
 グラウンドやテニスコート、体育館が、小さい。走るやつらは豆粒のようで、転がるボールは遠近感を狂わせる。そして、誰もいないプール。明日から、授業も始まる。
 絶対、負けたくない。
 天川なんかに、負けたくない。
 そのときふと、おれはあることを思いついた。
 先日、深夜にやってたミニシアター系のロードショー。SFのしょうもない洋画だ。学生が、試合に勝ちたいために宇宙人を味方につける――。
「ポラリス!」
 腕を広げて、目を閉じた。
 どれくらいそうしていたのか、ただの数秒だったのか。暑さに足元がふらついて、おれは仰向けに倒れた。目を開くと青空が全開で、まぶしい。
「あほくさ」頭がクラクラする。
 こんなもんなのだ、どうせ。おれは、こんなもんだ。わけのわからんものにすがるなんて……。
 まぶしさから目元をかばうために伸ばした左手の指先に、白い光がチカチカと揺れているのを見つけた。
「ん?」虫かな? と思った。
「待たせたカナ、大洋!」
 すると、何かが耳元で囁いてくる。おれはがばりと起き上がって周囲を見たが、誰もいない。
「ここ、ここ」
 左手の光は肌の上をすべるようにして動き、おれの鼻の頭でチカチカとした。

 にわかには信じられないことだけれど、どうやらおれは、宇宙人の召還に成功してしまったらしい。しかもこいつ、映画と違って、地球人を利用しようという気配が見られない。つまり、バカだ。
「夏休みの自由研究で、地球人の欲望について調べようと思ってナー……」
 地球で悩みを抱えている人のところへ行き、その人の願いを叶えて成果をまとめよう、ということらしい。
 研究と言いつつもその内容は、叶えられる内容なら叶える、という、曖昧な条件である。おれの場合は、天川より速く泳ぎたいってやつで、それは大丈夫らしい。
「地球を滅亡させるトカ、生命に関わるようなことは、チョット無理。時空移動トカも」
「まあ、物理的にありえる程度ってことか」
「ソーネ。物理、大事。地球時間で一ヶ月以内でヨロシク」
 お願いは一度しかできないと言われては、試すわけにもいかない。こんな状態で、どうして信じられるだろう。病院に行ったほうがいいのではないか、とも、もちろん思った。
 けれど。
 翌日、おれは驚くことになる。
 朝、教室に着くと、みんなが手を見せ合っている。手相でも流行っているのか? そう思ったけれど、違う。手を差し出しているやつの指先には、あの、白い光があったのだ。

*

 推測するに、あのとき学校にいて、外にいた全員が、あの白いホシ――宇宙人は自分のことをホシと呼ぶので、おれもそう呼ぶことにする――を持ったようだ。そしてホシを持たないひとには、他人のホシが見えない。先生たちは、外にいたとしてもホシを手に入れてない。……
「若い、大事。若い、欲望、知りタイ」
「あれ全部、おまえなのかよ」
「デス、イエス!」
「じゃ、おまえはポラリス」
「ポラリス?」
「名前。ホシじゃ、ぜーんぶのことになっちまうから、おれの手にあるおまえの名前」
「へー、おもしポラリス!」
 この会話も、おれ以外には聞こえていないみたい。だから、ホシを持ってるやつらはみんな、ときどき独り言を話すようになった。授業中なんかはすごい不気味なことになるから、顔を向き合わせてお互いに会話してるように見せかけるようなやつらまで出てきた。よーく聞いてみると、まったくちぐはぐなこと話してんの。
 数日も経てば、おれはホシの力を信じ始めた。
 周囲で願いを叶えたヤツが出始めたからだ。
 提出日厳守のレポートを忘れたやつが、一分で家と学校を往復して間に合わせたり、英語訳の問題を当てられた、明らかに予習してないやつが、すらすらと模範解答(意訳つき)を答えて褒められたり。
 聞いてたしかめたわけじゃないけど、絶対にそうだとわかったし、周りのやつらも気にしてた。普通では絶対に無理だし、何より、授業後、やつらの手からホシが消えていたからだ。
 信じるには、充分てわけ。
 帰宅部とか、文化部で校舎内にいたとかでホシを得なかったやつらは、初めは何がなんだかわからなかったようだ。ホシの力が認知され始めてからは、持ってるやつらでなんとなくツルんじゃったし、ますます不信感を募らせてる感じだった。
 けれどもだんだん、その構造も崩れ始めた。
 持っているか持ってないかではなく、信じる派と信じない派に分かれ始めたんだ。なんか、派閥とかもできたみたい。
 あほらし。
 ホシを持ってることで偉そうにしたり、ホシを使って消えたのに、まだあるふりをしたり。そういう優越感て、見ていてヘドが出る。あいつらに、ホシを持つ資格なんかないね。
 派閥って、宗教みたいな感じ。なんかあったら、このホシで助けてやるから〜的な。ちやほやされて、浮かれてんの。ほとんど女子。女子でホシを持ってるやつはすくないから、余計ね。
 すごい、しらける。
「はーあ、クソばっか。クソ、クソ!」
 屋上の小さな日陰から空を仰ぐ。
 本音を声に出して叫べる場所なんて、ここだけだ。
 周囲の願いは、だんだんエスカレートしている。最近は、何に使ったかを報告し合うのが流行っているみたい。ほんとにくだらない願いばっか。テストの結果を良くするためとか、彼女とヤるためとか。それは加速して、新任の女教師を口説いたやつまでいた。
 自慢げに話すその口を、ナイフで裂いてやったら、この気分もすこしは収まるだろうか。
 やんないけど。
「ポラリスはこんなんに使われていいわけ?」
「生殖行為は、ナカナカ、参考になるカラ」
「へー、おまえらはなに、分裂? アメーバ的な?」
「デス、イエス!」
「いいなァ、そっちのがキレイそう」
 欲望なんて……。
「大洋はよくサボるナ。オマエだけだ、学校に来てるのにサボるのハ」
「あいつら、見てるだけでいらいらするんだもん」
「同じモノ、持ってるノニ」
 左腕を自由に滑るポラリスは、曖昧な発音でそうつぶやく。
「おれは違う」
 立ち上がって、日陰から出る。なんとなく目をやったプールでは、天川のクラスが水泳をしている。さすがにここからじゃ、どれが誰なのか、さっぱりわからない。
 でも、
「天川だ」おれは、視線を留める。
「わかるノ?」
「うん、第四コース」
 あのクロール。
 背泳ぎも平も、バタフライも負けてるけど、おれと天川のタイムはクロールが一番開いている。
 教師の笛が細く鳴ると、天川はプールサイドに上がって他の女子とまぎれてしまった。そうなると、もうわからない。水の中にいたら、ひと目で見つけることができるのに。
 天川は、相変わらず無口だ。彼女の腕にホシがあるから、おれのポラリスも見えてるんだろうけど、お互いに触れることはなかった。
 天川も、水泳大会で使うだろう。他に使い道はないはずだ。
 そうなれば、結果はやはり、実力に委ねられるのだろうか。
「あの子、スキなノ?」
「はぁ?」
 ときどき、ポラリスは変なことを言う。
 自由研究の材料が揃って来たのだろう、話のバリエーションが増えたような気がする。特に恋愛系が多い。おれに振られたのは、初めてだ。
「叶えてあげヨウか」
 くるくると、光を増す。
「いらねえ! まじいらねえ。おれの願いは、あいつに勝つことなの!」

 おれはそのままホームルームにも出ず、部活に出るため水着に着替えた。プールではまだ一年の担当クラスが掃除をしているから、自販機でジュースでも買おうと、百円玉を持ってピロティへ向かう。
 その途中で、いやなものを見てしまった。
 プール裏の、チャリンコ置き場の影。
 女子が三人。タイの色を見るに、三年だ。同じく三年らしき、ひ弱そうな男子を囲っている。
 男子は座り込んじゃって、両手を腹のほうに押し込めてうずくまっている。変な姿勢だな、と思ったけれど、すぐに理由はわかった。
「早く手ェ出しなよ」
「そのホシ、貰ってあげるからさあ」
 弁当箱か、参考書か。手持ちの四角いバッグを荒々しく男子の頭にぶつけながら、女子はちは続ける。
「次の模試でD判定だったら、やばいのよ!」
 そうか、三年は受験だから……。
「あんた、Aだったんでしょ? なら、いーじゃん」
「それともなんか、使いたいことでもあんの?」
「やらしーな」
 無理やり、光の宿ったその腕を奪おうとする。たしかに彼女たちの手には、ホシの光は見られない。なら、男子の光だって、見えないはずじゃないのか?
「隠したって、わかってんのよ! 見えるようにしてもらったんだから!」
 うわ、すごい顔!
 女子って、なんか変な迫力があるよな、こういうとき。
 も、こーなったら、どーしょもない。上級生に関わるような度胸、おれにはないし。ホシが見えるってのも、本当かもしれない。なら、ノコノコおれが行ったとして、ターゲットを増やすだけだ。
 最近、突発的ないじめが広がっていると担任が話していたけれど、なるほどこういうことだったのか。ホシの受け渡しは、ポラリスが可能だと言っていたし。
 ご愁傷様。
 胸の中で手を合わせて、物影から身を引く。
 そして二歩ほど進んだときだった。
「きゃあああっ」
 三人の甲高い叫び声がしたかと思うと、強い風が後ろから吹いておれの足元をふらつかせた。
 あたりは砂埃で真っ白だ。
「な、なんだあ?」
 近くのフェンスに手をつき、目をかばいながら辺りを見回す。
「誰か、ホシを使ったのカモ」
 ポラリスが冷静に述べた。
 てことは、あの男子か。奪われる前に使うなんて、ちょっとは見直したかも。女子たちは、きゃあきゃあと文句を言い合っている。
 次に会ったときが怖そうだな。
 などと思いながら、思い直してピロティへ行くと、見覚えのあるパーカーの後姿を見つけた。はっとして、立ち止まる。間違いない、天川だ。そばには、さっきの男子の姿。
「あ、ありがとう……でも、せっかくのホシを」
 おれは、またまた、近くの柱に身を隠す。
 なんか、いやな予感がした。
「えっと、気にしないで下さい」天川の細い声。
 なんかそれだけで、わかっちゃった。
 天川があの風を巻き起こし、男子を助けたのだ。
 でも、どうして?
 なんで、そんなことをする?
 目的があって、ホシを使わずにいたんじゃなかったのか。
「で、でも……」
「ちょうど良かったんです。あの、持て余していましたから」
 じりじりと太陽に焼かれる左腕に、冷たいひとつの光。またたくように、肌の上を滑ってゆく。さきほどとはまったく違う、やわらかな風が吹き、にじんだ汗を冷やした。
 右手に握っていたコインが、乾いた音を立てて落ちる。
「……くそっ」
 突き動かされるように、走り出す。逃げるように。見つかっては、いけないように。
 なんなんだよ、あいつは。
 あんな……あんな、使い方!
 正義感がそうさせるのか。くだらない優越感か。おれにはわからない。天川が何を考えているかなんて、わからない。
 聞いたことのない、やわらかな声だったことはたしかだ。
 プールにはまだ諸星の姿はなくて、おれはそのまま水の中へと飛び込む。一気に体温が冷やされて、けれども体内は燃えるような熱を持っている。
 あのときの天川の声が、内側からおれの鼓膜を何度も叩く。そのたびに、普段、おれが抱いている天川がはがれるように崩れてゆく。
 おれの知ってる天川は、おとなしくて、声が細くて、水の中でだけ生きているような女子なのに。
 あんなふうに、上級生の男子を自ら助けるようなことなんか、絶対にしない。絶対に。
 言い知れぬ感情が、腹の底に溜まってゆく。
 潜水していくら泳いでも、払拭されることはない。
 浮上したと同時に身体を返し、空を見た。
「っは、は、は……」
 ああ、咽喉が、どうしようもなく震えている。
 恐怖のせいだ。
 天川が、おそろしい。
 背中は冷たく、胸は焼かれて熱くなる。
 腕を振り上げる。
 白いポラリスが、指先に宿っている。
「おれは、おまえが必要だ」
「デス、イエス!」
 ポラリスの声が、なんだか遠くに聞こえた気がした。

*

 それからおれは、部活にもあまり顔を出さなくなった。
 どうせ、水泳大会ではポラリスを持つおれが勝つ。練習する必要も、相手を見張る必要もない。
 担任に呼び出され、一学期末考査が迫っていることもあり、授業には大人しく出るようにした。相変わらず目障りなホシが視界の端にちらほらしてるけど、飽きてるやつらもいて、すこしはマシになったみたい。ホシ関連で話しかけてくるやつらは、全スルー。
 水泳の授業があると、やっぱ泳ぐ楽しさに夢中になってしまうけれど、それよりも天川への得体の知れない恐怖が勝った。
 クラスが離れているのが、せめてもの救いか。部活に出なければ、顔を合わせることはない。
 諸星には何度か呼び止められ、どうして部活に出ないのかと咎められた。腹を下していると嘘をついた。
 テストも終わり、体育祭も終わり、あっという間に水泳大会当日を迎えた。
 ムカデ競走、石拾い、騎馬、水球。
 普段、陸の競技で活躍してるやつらが、やっぱりここでも活躍する。運動するやつとしないやつの差って、はっきりと分かれている。
 でも、純粋に泳ぐということになると、違う。走りみたいに、サッカー部もバスケ部も活躍できるようなもんじゃないんだ。
「クラス対抗リレー!」
 体育教師が拡声器でアナウンスする。
 最後から二番目の種目だから、体力もあまりない。この状態でリレーとか、プログラム組んだ先生も結構サドい。おかげで、おれと天川がアンカーを張るということの意味が増す。
 六クラスだから、予選はない。コースすべてを使い、いきなり決勝である。
「大洋、よろー」
「がんば!」
 クラスの連中とタッチしながら、スタート台へと向かった。一応自由形だけど、みんなクロール。授業でクロールしかやらないし。ターンがあれば背泳ぎにしたいところだけれど、ないから、おれもそのつもり。天川も同様だろう、二十五メートル一本なら、クロールのほうがタイムは良いはず。
 もちろん、負けるわけはない。
「じゃ、ポラリス、頼むぜ」
「お別れカー、一ヶ月も一緒だったから、さびシイ」
 そういえば、ポラリスは一ヶ月以内に使わなければならないんだったっけ。水泳大会のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。
「よおい――」
 ピーッ!
 笛の合図とともに、向こうのスタート台から第一泳者が飛び出した。
 呼吸を整えて集中する。ポラリスがいるとはいえ、気は抜けない。
 おれの足元で、第二泳者が出た。
 他のコースも、アンカーは待機するために水の中へと入る。そうして、おれと天川だけが残った。みんな、プールの中でタッチを待つから、飛び込み組は目立つ。部活に出てないから天川と並ぶなんて久しぶりで、余計に緊張する。
 それでも視界の端で天川の姿を見ていると、おれは、あることに気付いた。ホシを持っていたのだ。
 なんで?
 あのとき、使ったんじゃなかったのか。
 トップの第三泳者が出て、二位と三位もすぐにその後を追う。おれのクラスは、現在二位。天川のクラスは四位。といっても、一から四はほとんど団子になっている。泳ぎもそうだが、タッチがスムーズなクラスが速い。
 別にこの段階で何位だろうと、おれが勝つことは変わりない。そう思っていた。けれど、天川もホシを持っている……。
「大洋」ポラリスが急に声を上げた。
「なんだよ、集中させてくれよ」
「天川、純粋に勝負しタイって、オネガイしてる」
 え?
「矛盾するネガイ、初めて〜ドッチ叶えよう〜迷うナー?」
 思わず天川のほうへ視線を向けると、やつもまっすぐにこちらを見ていた。
 目が合ったとき、あいつ、どんな顔をしたと思う。
 笑ったんだ。
 おれは、とっさに視線を逸らした。わけもなくゴーグルをいじり、つばを呑む。なんだろう、おれの知ってる天川は、あんなふうに笑ったか。もしかして違うやつなのではないか。
「大洋、来てるぞ!」
 クラスのやつらに声をかけられ、はっとコースへ目を戻す。第三泳者が、もう一息で着くというところだった。すぐに身体を屈めて、集中する。タッチの気配とともに、そいつの頭上を飛び越える。
 着水と同時に、指先にいたポラリスを潰した。
 瞬間、まるで血管のように筋が広がったのを見た気がした。力がみなぎり、肩が軽くなる。
 ポラリスは、おれの願いを聞き入れたのだ。
 振り上げる腕。
 圧す水。
 刻みよいフォームが、気持ち良い。
 屋上から見た、天川の泳ぎを思い出していた。伸びるように、まるで魚のように泳ぐ姿。まるでそうすることでしか、生きられないように。
 すぐ二つ隣のコースで、きっと同じように泳いでいる。いま、どちらが勝っているだろう。天川もホシの力を使ったかもしれない。あの、笑み。
「――!」
 呼吸が乱れた。
 考え事をしていたから?
 ポラリスの力が加わって、リズムを崩したから?
 吐ききった空気を取り戻そうと咽喉を開いた瞬間、口と鼻に大量の水が流れ込んで来たのである。
「大洋くん!」
 誰かの声が聞こえたかと思うと、まばゆい光がおれを包んだ。

*

 夏休み初日、水泳部。
 朝は筋トレして、準備室で昼寝をしてからプールに入る。
 昼寝は諸星の提案で、身体を休めることが目的と言っているけれど、ま、諸星が寝たいだけだろう。
 もう、おれの左手にポラリスはいない。
 天川の手にも。
 水泳大会のリレーは、無事に、おれのクラスが優勝して終わっていた。事態が上手く飲み込めなかったけど、最後の種目というか、洗濯機(みんなでプールの中をぐるぐる回るやつ)で、天川に声をかけられてすべてを悟った。
「大丈夫?」
 という、変哲もない一言だったけれど、あのとき水の中で聞いた声と同じだったから。
 どーせ、ホシを使って助けたんだろ。その腕にホシがあるかは確認できなかったけれど、なんとなくそう思った。
 で、おれは、どう反応したらいいかわからなくて、聞こえないフリをしてしまった。
 それだけ。
 ポラリスがいない日々は、別になんともない。むしろ、調子が良い。見たくなかった他のホシが、全部見えなくなったせいだ、ということに気付くのに、二日とかからなかった。
 解決法は、いとも簡単だった。
 手放せば良かったのだ。
 天川とも、あれからは普通に話してる。もう無視はしない。
 いまもまだ、別のホシを持っているのか、初めのうちはそれが気になっていたけれど、すぐにどうでも良くなった。見えないものを気にしても、仕方がない。
 見えるだけが、おれの知る天川のすべてで、でもそれは、天川のすべてとイコールではない。誰でも、知らないところですこしずつ変わっていく。
 天川は、勝負に貪欲ではない。
 天川は、人のためにホシを使う。
 それだけでしょ。
 なんか、ヘキレキの晴天みたいな気分。

「大洋くん、起きてる?」
 かー、かー、と、健康的な諸星の呼吸をBGMに、天川のささやき声がした。
「うん」なんか、いつもと違うシチュエーションに、声が上ずってかっこわるい。
「泳ぎたくない?」
 ここで、泳ごう、と言わないのが、天川だよな。
 二人で準備室を抜け出す。おれはさっさと水に入ったけど、見れば天川はパーカーを脱ぐ気配すらない。
「どうしたの?」
 天川を見上げるというのも、なんか新鮮である。
「あたし、見てる。大洋くんのクロール、好きなんだ」
「は? え? なに言ってんの? とろいのに、おれ」
 うわ、情けね。しどろもどろ。
「てゆーか、なんか天川、性格変わった?」
「うん……あのホシの、おかげかな」
 そう言って、天川は空を仰いだ。
 おれも一緒になって視線を上にやる。
 夏休みの自由研究、きちんとまとめて提出できただろうか。まだ研究不足とか言って来られても、もう勘弁だけど。
 天川への借りは、なんとかして自力で返すつもり。
 それが、おれ、だからね。
(2011.10.30)
「もしそば」寄稿作

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