アオの後遺症

 その手の震えが畏れから来ているということに、当時、十六歳だったクロエ・マリは気づけなかった。
 とても豪華な食事も、重厚な楽曲も、すべて色を失くしてクロエの前に横たわっている。色がついているものがあるとすれば、たったひとつ、目の前の、一枚の布だけだった。
 いや、その布が、クロエから世界の色を奪ったのだ。
 ドレスを握る手に力が入る。
 ああ――
 感嘆でも、諦めでもない。大きなため息が、胸の奥からこぼれ出た。
 自分が主役でないことは、わかっていた。この作品展の入賞結果は、学校を通し、事前に連絡があった。クロエの作品は、選外。進学援助は受けられない。援助を受けず進学をするにしても、学校から離れるにしても、働く義務が発生する。すべて承知の上で、ここへ来た。だからこのとき、クロエは自分のことで失望をしたのではない。
 最優秀作品、アオ。
 はためくことなく、揺らめくことなく、その布は天井からまっすぐに吊られ、余った部分が床の上に広がって――そういうふうにデザインされた絵画なのだ――クロエは吸い込まれるように、一歩二歩と、足を進めていた。
 タイトルに掲げられているとおり、さまざまな青で描かれた風景画は、まるで風をはらんでいるかのようなすがすがしさを感じさせる。
 どこか遠くへ行けそうな……、
 真新しい世界に、出会えそうな予感。
「ちょっと、きみ! 下がりなさい」
 後ろから強く肩をつかまれて、はっとする。
 作品である布を踏んでいたのだ。
「ご、ごめんなさい」
 飛ぶようにして、その場を退く。
 彼女の肩をつかんだ係員の傍には、先ほど、壇上で表彰されていた少年が立っていた。眼鏡の奥の黒い瞳が、まっすぐクロエを捕えている。
「ごめんなさい、あの……悪気は……」
 言葉に詰まって、クロエはうつむいた。なんと言えば良いのだろう。
 しかし予想に反し、彼は穏やかに笑うと、金色のトロフィを抱き直してクロエに歩み寄った。
「踏みこんでしまうような絵になってるってわかって、嬉しいよ」
 背が低く、声もあどけない。制服の肩が余っていた。
 十四歳だと言っていたことを、クロエは思い出す。
 次の春より二つ飛び級することが決まり、コンテストの参加権が突如発生した、シクラ・ナオキであった。

*

 ピピッ……ピピッ……
 アラーム音で、クロエは浅い眠りから引きずられるようにして起きた。反射的に右の手首に触れるけれど、目的のものはそこにはない。
 そうだ、ここは、仕事部屋の椅子の上。
 手さぐりでテーブルの上に投げ出されたリング状のデバイスを取って、手首に巻きつけると、小指を耳へ入れた。
「はい……」寝起きだと悟られない声を心がける。
「おはよう、マリ。調子はどう?」
「なんだ、カレンか」
 電話の主が学友であると知れて、クロエは椅子の背もたれに、沈みこむように体重を預けた。先週、新調したばかりの椅子は、ベッドにできそうなほどに広くて柔らかい。
「なんだ、じゃないわよ。授業、サボってさ」
「うん、仕事がね」
「コンテストが近いんだから、学校に来ないと、審査に響くわよ」
「うん……」頬杖をついて、目をつむる。「そうだ、夢を見たよ、コンテストの。四年前の夢」
「頭のどこかでは意識してるってことね」
「そうそう、だから、大丈夫。ところで、いまって何時?」
「十一時」それを聞いて、三時間は寝たのかと、クロエは計算する。「午後の授業に間に合うでしょ」
「あとひとつ、仕事を終えたらね」
「もう……、きっとよ」
「うん、きっと」
 電話を終えて、クロエは身体を伸ばした。
 カレンの言うとおりだ、コンテストの招待状を得たければ、学校もおろそかにしてはならない。
 二十年前から始まったカリキュラムは、義務教育課程を終えた学生に、一定の労働を課すというものだった。
 労働といっても難解なものはなく、誰にでもできるようなものばかりだ。賃金も受け取れる。だが、時間を取られることには変わりない。ほとんどの学生は、それをまぬがれるため、試験なりコンテストなりで成果を収めようとする。そこで認められれば、労働は課せられない。
 その機会は四年に一度訪れて、何度でも挑戦が可能だ。ただし、初回を除き、あとは申し込みに料金がかかる。それすらも惜しむならば、四年間で良い成績を出し、招待状を得る必要があった。
 クロエは椅子を回転させ、広いテーブルに向き直ると、資料の上に置いたままになっているカップを取った。
 昨日淹れたままのコーヒーだが、かまわずに口のなかを湿らすクロエである。そのとなりにある紙包みから取ったビスケットも湿気を含んでいるが、やはりかまわずにかじった。
 空いている手で、テーブルの天板にさわる。
 内蔵されているディスプレイが明るくなり、要求されたデバイス・ナンバーを、左手だけで、慣れた様子で入力する。
 十八桁にも及ぶそれは、もしかすると誕生日よりも身近なものかもしれない。すくなくとも、この番号がなければ、身分の証明ができない。友人へ電話をするにも、学校の門をくぐるにも、仕事をするためにシステムへログインするにも、必要なナンバーである。
 ディスプレイには、現在、クロエが請け負っている仕事内容が表示されていた。
 一件のみのそれを、開く。
 学校に行くためではない、納期を守るためにやるのだ。
 クロエは定期試験が終わってすぐ、詳細を確認しないまま、大量の仕事を受領するクセがある。今回は、どうにもハードな内容が多かった。特に最後まで残ったこの一件は、納期が明日だというのに、未だにこころが決まらない。
 本当は、この仕事のせいで、記憶の奥底からあの夢が出てきたのだろう。半年前に亡くなったデザイナー、ムラナ・ヨーコに関する情報を集める必要があるためだ。
 四年前、シクラ・ナオキが油彩のカンバスに選んだのは、ムラナ・ヨーコの作品である布だった。
 かつて、世界的に有名だったムラナ・ヨーコの布を大胆に使った彼の絵は、見る者をまさしくその世界へといざなった。
「サーチ。ムラナ・ヨーコ」
 テーブルの上に、彼女の作品がサムネイルとなって表示される。シクラがカンバスに選んだものもある。代表作とされるものだ。
 あのコンテストでクロエは選外であったが、この四年間の成績から、招待状が届くかもしれないという話が、教授からあった。いまさら、一日中絵を描いていたいとは思わない。働くことは楽しいと感じているし、賃金が貰えるのも悪くない。ただ、またあのアオに会えるだろうかと、クロエはひそかな期待を抱かずにはいられないのだった。
 シクラ・ナオキの名を、この一年ほど、まったく聞かない。どの学校へ進んだにしろ、あのコンテストの連盟校であるには違いないのだから、動きがあれば些細な情報でも入るはずだ。
 実際、一年前までは、新作が出るたびに友人たちとの話題に上ったし、その詳細をネットワークを通じて見ることもできた。
 学校を移ったという話もなければ、留学したという話もない。彼は、忽然とみんなの前から消えてしまった。
 その理由を知りたいとは思わない。
 ただクロエは、彼が次に描くものが何であるか、知りたいのだった。
 コンテストで最優秀賞を取ったのなら、この四年間がどんなものであったとしても、招待状が届くはずだ。
 そこでの再会を、クロエは期待している。
 早くこれを片づけてしまおう。
 そう思いながら、ディスプレイに視線を落とし続けているクロエの目が、見開かれた。
 その先には、一枚のサムネイル。
 小指の爪ほどの大きさではあったが、それが、純粋なムラナ・ヨーコの作品でないことは、どうしてだかすぐにわかった。
 同時に、強い予感を覚える。
 息を詰めたまま、拡大する。オークション情報が付加されていて、出品者のテキスト・メッセージが流れた。
「お願い、あなたの思う値段で買って。ぼくはそれでホットドッグとコーラを買う」
 出品時刻は、三十分前。
 考えている暇などなかった。すぐに即決価格での落札手続きをし、要求された情報を入力していく。
 ムラナ・ヨーコの布に、惜しみなく塗り重ねられた絵の具。
 迷い込んでしまいそうなほどの、とりどりのアオ。
 間違いない。
 これは、クロエの直感だった。
 シクラ・ナオキの作品であるという、クロエの直感であった。

「ひとり暮らししてるの?」
 ワンルームの部屋に踏み入れた途端、彼はそう言った。
 出品されていた作品がシクラ・ナオキのものだとしても、出品者がそうであるとは限らないと、クロエはもちろんわかっていた。
 その作品に興味があったから、相手が誰であれ買い取るつもりだったのだ。
 しかし、待ち合わせ場所についたとき、すでにそこにいた男がシクラだということは、そう、ひと目見て明らかだった。
「うん、まあ……そうなるのかな」
 鍵をかけて、クロエは答える。
 先に入ったシクラの動きを感知して、窓のないワンルームの照明がついた。
「友だちとシェアしなかったんだ」
 シクラは意外そうにつぶやく。
 そうすることが一般的なのはたしかであるし、クロエもこの質問には慣れていた。
「タイミングが合わなかったの。実家が近くて、学校へはそこから充分に通えるしね。でも狭くて、制作スペースが取れなかったから、部屋を借りたんだ」
「そっか。でも、最近はあまり帰ってなさそうだね」
 クロエよりすこし背の高いシクラは、長い指を制作用のテーブへ向けて笑った。
 両腕を広げても余るほどの幅と、充分な奥行きを持つ天板の上は、ディスプレイになっている箇所を除いて、さまざまなもの――資料はもちろんのこと、着替えや飲料水のボトルなど――が散乱している。傍にある大きなゴミ箱も、インスタント食品の残骸などでいっぱいだ。
「いま、仕事が立て込んでるから……。もう、ちゃんと片付けるから、シャワー浴びてきてよ」
 クロエは、頬が熱くなるのを感じた。
「この扉?」
「そこは、クローゼット。こっちよ!」
 楽しそうに物色しながら奥へ入っていくシクラの腕を引っ張る。すると、彼は簡単に足元をふらつかせ、近くの壁へ背中を預けた。
「あ、大丈夫?」思わず、その肩へ手を伸ばす。
「ありがとう、平気」
 シクラは、クロエの手をやさしくさえぎった。
 骨ばったその手は、男性らしく彼が成長しただけでは決してない。首まで覆う黒髪で目立たないが、頬もこけているようだ。爪も伸び、シャツの袖口は黒く汚れ、ジーンズのすそも擦り切れている。
 クロエは玄関横の扉を開けて、そこへシクラを誘導した。
「好きに使って。バスタブにお湯を溜めてもいいから。洗濯機の使い方はわかる?」
「大丈夫だよ、えっと……」
「クロエ・マリ」
「ありがとう、クロエ」
 外で二度も名乗ったはずだが、呼ばれたのは初めてだった。
 扉を閉めて、キッチンへ行ってコーヒーメーカをセットする。
「はあー」
 大きなため息をこぼして、備え付けの椅子に腰かけた。
「覚えてないよね。当然、当然」
 シクラを部屋に招き入れたのは、なにも懐かしい話に花を咲かせようと思ったからではない。それができないことは、わかっていた。大きな展示会で、四年も前のことだ。交わした言葉もひとつだけ。クロエの作品も展示されていたが、彼が見たかどうかもわからない。
 そう、ひと目見て、シクラだとわかった。
 名前を確認するまでもなかった。待ち合わせの目印にと持って行った傘――外は晴れていた――に目を留めてこちらに気づいたシクラよりも先に、クロエは彼を見つけていた。そしてすぐに、部屋に来るよう言ったのだ。
 何日も食べてない顔だった。満足に眠ってない目だった。シャワーすら、きっと。
 学校は?
 ある程度の支援を受けているはずでは?
 数々の疑問が瞬時によぎったが、それよりも、オークション情報に付加されていたテキスト・メッセージを思い出していた。あれは冗談ではなく、本当に、ホットドッグとコーラを買うために出品したのだ。
 新しく淹れたコーヒーに口をつけながら、細々としたデバイスであふれかえったテーブルの上を整理してゆく。開いたままのスケッチブックを閉じ、大きな作品はクローゼットへ仕舞った。使わないものは捨てて、ゴミ箱の袋を結んだ。
「あ、食べ物はどうしようかな」
 ここは、作品の制作をするために引きこもるための場所だ。食糧は最低限しか置いてないし、クロエ自身も料理が得意ではないので、刺激の強いインスタントばかりである。しかし、いまのシクラ・ナオキには、もっとやさしいものが良いだう。
 クロエは右手首に装着した、レゾン・リンク・デバイスをひねる。腕が画面代わりになって、文字が浮かんだ。家族のサークルを開き、母と姉を同時にコールする。
「はーい、どうかした?」出たのは、姉のほうだった。
「胃にやさしい食べ物のつくり方を教えて」
「いいよ、穴でも空いたの?」
「いや、えっと……そんなとこ。何日も食べてない」
 シクラの様子を想像しながら、答える。
「じゃあ、冷蔵庫に何があるか教えて」
「えっとね……」
 姉も仕事中であるはずだが、時間に縛られないため、手短ながらも付き合ってくれた。
 ふたつしか違わないのに、すでに子持ちで面倒見も良く、いつもクロエの生活を助けてくれる。
「ちゃんと、家に帰りなさいよ。できないなら、炊飯器あげるから、ちゃんと生活環境を整えて」
「ありがとう、いまちょっと立て込んでるだけだから」
 久しぶりに使った調理用ヒーターには、ゴミ箱から見つけ出してよく洗った、インスタントのアルミ鍋。なかではスープが煮立っており、冷凍庫の奥にあったパンが、水分を吸って膨張している。あり合わせではあるものの、買い物に行かずに済んだ。
 クロエはもう一度礼を述べて、通信を切った。
「さすがお姉ちゃんだなあ」
 味見をして、アルミ鍋をヒーターから下ろす。
 そろそろシクラが出てくるだろうかと時計を見ると、彼がシャワー室に消えてから、すでに一時間が経とうとしていた。しかし扉の向こうから、出てくるような気配はない。耳をすませると、シャワーの音さえもしない。
「え? ……え? シャワーすら、いけなかった?」
 貧血、という二文字が脳裏をよぎった。
 クロエはあわてて脱衣所の扉を叩いて開ける。
「シクラ? 大丈夫?」
 脱衣所とバスタブを仕切るカーテンには、湯船につかるシクラの影があった。しかし声をかけても、それは動かない。
「ねえ、シクラ……!」
 思わずカーテンを引く。
 すると、丸くなったふたつの目が、こちらを見上げた。
「え? な、なに?」
「あれ?」
 急いでカーテンを閉めた。
 お湯に肩までつかり、彼は一枚のタオルを湯に広げてぼんやりしているようだった。
「長いから、心配したんじゃない。早く上がらないと、のぼせるよ」
 つい、早口になってしまう。
「そうか、時計を持ってなくて」反してシクラは、どこかはにかんだような声で笑った。
「レゾン・リンク・デバイスは身につけてないの?」
「レゾン?」シクラが立ちあがって、タオルを絞る音がした。
「持ってるでしょう、首か手首に巻くやつ」
 答えながら、クロエはふと眉をひそめた。そういえばシクラは、そんなものを身につけていただろうか。
「ああ、十八桁の」
「そうそう、後でナンバーを交換してね」
 持っていないはずがない。
 なにもリング状で装着せずとも、棒状に伸ばしてアクセサリのように携帯するひとだっている。
「ないよ」ところが、シクラの答えはクロエの想像の範疇を越えていた。「売ったんだ、生活に困って」
 洗濯機の上に置かれた彼の眼鏡が、わずかな振動で揺れている。それもじきに収まって、クロエはずっと、レゾン・リンク・デバイスを売ったという言葉の意味を考えていた。それを失うということの意味を、考えていた。
 どうやって病院に? 銀行に? 学校に? 行くというのだろう。どうやって?
 音を立ててカーテンが開く。
 振り返ると、身体を拭き終えたらしいシクラが、胸の前にタオルを広げて立っている。クロエも普段から使っているものだ。バスタオルもあるのに、どうして……。
「ちょっと、出るならそう言ってよ!」
 目元を隠して出ようとするクロエなどかまわず、シクラはその背中に、ねえと声をかけるのだった。
「これ、ムラナ・ヨーコの作品だね」
 見ると、先ほどよりも血色の良くなった彼が、嬉しそうに笑っている。デバイスなんかよりも、とても大切なものを見つけたような眼差しで。

 乾燥したばかりの堅そうなシャツを着て、シクラは台所用の椅子をテーブルの近くに置いて座った。ジーンズはまだ湿っていたので、下は下着だけだ。
「おいしーい」
 アルミ鍋から直接スープをすすり、ひたひたになったパンを頬張るシクラは、健康そうであった。コーヒーは好まないらしく、あたためたミルクを飲んでいる。
「ありがとう、クロエ。こんなにしてくれるなんて、落札値以上だ」
「わたしは……」クロエはカップを右手に、左手でデバイスをいじりながら言った。「あなたの作品に、もっと価値があると思ってる」
 もしここまでする自分が変だというのなら、知らない人間の部屋に上がりこむシクラのほうがもっと変だ、とクロエは思った。
 たしか彼は、十八歳のはずだ。
 カミソリで丁寧にひげを剃って、髪を後ろで束ねた彼は、もっと幼くも見える。ここは、そんなに治安の良い街ではない。
 デバイスを持たないのにネットワークにアクセスできたのは、レンタルデスクカフェのサービスを利用したからだと話した。それだって、たまたま点数が残っていたプリペイドカードを拾ったからということだが、プリペイドには、購入者のナンバー情報が入っている。もしも受け付けで本人確認をされたら、彼は立派な犯罪者だ。
 しかしそんなクロエの指摘にも、動じる気配はない。
「万引きって、どんどん感覚が麻痺してきてね、早くやめたかった」
 そんなことを、平然と言ってのけるのだった。
 いまの社会は、レゾン・リンク・デバイスに依存することで成り立っている。そのため、人間のほうも、このデバイスに依存しなければならない。
 しかしクロエは、それが変だと思ったことがなかった。手放す必要も、理由もないのだし、手放したとしてもリスクが高い。
「クロエも落ち着いたら」
 スープを飲みほして、一段落つくと、シクラはそう言った。
 彼が浴室から出てきてからずっと、クロエはメッセージを送ったり資料を読んだりしている。
「ああ、これをやってるの?」卓上カレンダーにつけた印を指す。
 明日納期の仕事のことが書かれている。
「違うわ」
 もちろんそれもやらなくてはならない。
 仕事は、ムラナ・ヨーコがデザインした布を使って全身をコーディネートするという、あるコンペ用の資料をつくるというものだ。学生に委託するほどなのだから、大したものではない。
 あとは背景の色を決めるだけで、案はすでにある。
 まだしっくりきていないが、全力で挑む必要などない。すでにある知識とデータを使えば済む話だ。間に合わせるだけなら、簡単だ。
 いまのクロエは、それよりも優先すべきことがあった。
「じゃあ、デート?」
「あなたのデバイスを再発行してもらう手続きをしているの」
 隠していても仕方がない。クロエは、シクラのほうを見ずに言い切った。
「クロエ、そこまでしてくれなくてもいいよ」
「そこまでって……これがないと、死んでるのと同じよ」
 言葉にして、そうだと思い出す。
 シクラの情報がまったく入ってこなかったのは、彼がデバイスを使っていなかったからだ。
 手放したのは、ちょうど一年前だと話していた。
「生きてたよ、死んでない」
「罪を犯しながらね」
 悲しかったわけではない。悔しかった。
 そうならないための、デバイスではなかったか。カリキュラムは彼を管理するのではなかったか。あのとき、十四歳の少年の才能を守るために、最優秀賞が渡されたのではなかったのか。
「うん……そうだね、ごめん」シクラは視線を落とす。「でもクロエ。きみは、もっとほかにやるべきことがあるはずだ。すくなくともいまは」
 カレンダーをこちらへ向けた。
 おそらく明日の日付をさわったのだろう、納品予定の画像が四枚、並んでいる。
「大丈夫よ」
 声が低くなった。
「本当は、そんなこと思ってない」
 空っぽになったアルミ鍋を裏返すと、足元のにごったバケツに指をつけ、開けっぱなしになっているチェストの引き出しのパレットで固まっている絵具と馴染ませ、銀色に照り返すその部分に色を載せ始めた。
「ファッションのことはわからないけど、このコンセプトなら、おれはこの色を使う」
 わかっていた。
 クロエにはすでに、わかっていた。
 アオだ。
 パレットから選び取ったその色を、銀色の上で混ぜて広げていく。
「でも」
 反射的に、クロエの口が動いた。
「それは、……」シクラの、色だ。
 一般的なムラナ・ヨーコのイメージカラーは、紫だ。ポスターなどもよくその色が使われている。
 けれどももし、それ以外で探すのなら。
 言い訳なんかしたくない。それは、クロエが使いたい色でもあった。けれども、四年前から洗脳に似た刷り込みで感じているだけで、それはシクラの真似でしかないと、意識的に制限していた。
 本当は自分で見つけ出したかった。
 自分の、色を。
「クロエもそう思ってる。違う?」
 眼鏡の奥の真っ黒な瞳に覗きこまれて、クロエは唇が震えた。
 見抜かれている。
 どうしようもなく、見抜かれているのだ。
「違わない」
 こぼれ出た言葉は、彼を肯定して、そしてクロエ自身をも肯定した。
 差し出された無骨な手が、ペン立てから抜き取った絵筆を差し出す。
 彼は、生きていた。
 この四年間、ずっと変わらずに、生きていた。

*

 ピピッ……ピピッ……
 繰り返される電子音が、まどろんでいるクロエの意識を刺激し、浮上させる。
「はい」
 デバイスを操作して、右手小指を耳に入れた。
「マリ? おはよう。送られた画像の件なんだけどね」
 その言葉は一気にクロエを目覚めさせた。
 あわてて起き上がり、テーブルへ向かおうとして、そこがロフトの上だということに気がつく。
 腰が重い。
 なにかがまとわりついていると思ったら、それは手だった。
「きゃっ」
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
「ああ、はい、大丈夫。なんでもありません」
 シクラの手だった。
 そうだ、昨晩は、シクラに言われたとおり、提出物の手直しをしていた。時間ぎりぎりでサーバーにアップしたのだ。ところが、それ以降の記憶がない。いつも通り、椅子の上で眠りに就いたと思っていたが。
 思い当たるとすれば、この腰にかけられた手だろう。
 起こさないように、それを移動させる。
「すみません、いま、コンピュータから離れていまして。すぐに呼び出します」
 いつもなら椅子で寝ているため、もどかしい。
 しかし階段に足をかけたとき、電話の向こうの担当者が、「いや――」と言葉を続けた。
「まだ会議にかけてないんです、ぼくが見ただけで。すごく良かったって、それだけ伝えたかったんです」
「え?」
「うん、やっぱり色彩感覚が違うのかなあ。ぼくがやるのと全然違っていて、驚きました。新鮮だった。きみに頼んで良かった、また連絡します」
 隅々まで頭が冴え渡り、いま言われた言葉が反響し合う。どんな作品を提出したか、すぐに思い出せない。
 そのとき、自分のシャツの汚れを見つけた。
 アオだ。点々と、かすれたアオが腰にまとわりついている。
 そうだ、良いものだった。
 良いものでないはずが、ないのだ。
「あ、ありがとうございました。よろしくお願いします」
 やっとのことでそう述べて、通信を切った。
 未だとなりで眠るシクラの顔を覗き込む。
 ひとつに束ねていた髪がほどけ、長い前髪が、やつれた頬やくまのある目元を隠していた。
 こうして改めて見つめると、四年前のシクラ少年とはまるで別人のように感じられた。
 どうして彼だとすぐにわかったのだろう。
 クロエは自分のことながら不思議で、しかし、このまぶたが開かれて前髪をかきあげれば、きっとそれはシクラに違いないのだった。
 彼の指には絵の具がこびりついたままだ。
「手を洗わなかったな」
 シーツにも付着している。
 クロエは一度階段を下りて、ウェットティッシュを取り、その指に付着した絵の具を拭った。
 デバイスはおろかアクセサリもつけていない手首には、青々とした血管の筋が通り、触れると脈が感じられる。クロエは一分間の自分の脈拍数の大体を、知っている。体温も知っている。どれだけ歩いたかも。デバイスが常に、記録しているからだ。それは実家にあるメインのコンピュータに保存され、健康状態が管理されている。もしも大きく異なる数値が出て、クロエがそれを承諾する操作をしなければ、瞬く間に家族に知れ渡ることだろう。
 けれども、シクラにはそれがないのだ。
 もしもなにかあったら、誰も、気がつけないではないか。
 いままでどこで寝起きしていたのだろう。そもそも、こんなふうにゆっくりと眠れることが、何度あったのか。
 問いたくとも、シクラが目を覚ます様子はない。そしてクロエは、そんな彼を起こす気になどなれなかった。
 ロフトから下りて、コーヒーを丁寧に淹れようと思った。彼には、はちみつ入りのミルクを用意しよう。
 ピピッ……ピピッ……
 はっとしてデバイスを見ると、カレンのマークが出ていた。
 学校に行かなかったから、心配されている。
 言い訳を考えながら、クロエはその通信を取った。

 結局、カレンの誘いを断りきれず、クロエは学校へ足を運んだ。
 そこでも仕事の連絡を受け、久しぶりに授業にも出た。
 教授と最近の仕事やコンテストについて話し、必要な資料を図書館のデータベースでそろえた。
 いまはネットデスクがあれば色々な情報を引き出せるが、学校が独自に保有するデータはセキュリティがかかっていて、これを閲覧するだけでも刺激的だ。
 ただ、コンテストへの気持ちは薄らいでいる。
 シクラ・ナオキに出会ったから、もう出る目的がない。
 あまり意欲的でないことを話すと、教授も友人たちも、あからさまに落胆した。
 学校からしてみれば、招待でコンテストに出るというのは高い評価を得ることに等しい。機会を逃したくないのだ。
 クロエは説得を受けながらも、それを曖昧にかわした。のんびりしている場合ではない、早く帰りたいという気持ちが強かった。
 学校を後にして、その足で買い物へ出向く。
 シクラに合いそうな着替えをみつくろって、食べるものも購入した。
 部屋へ帰ったのは、午後四時を過ぎた頃だ。
 鍵を開けて、なかへ入る。
「あれ?」
 予想に反して、部屋は暗かった。ひとの動きを察知すれば自動的に明かりがつく仕組みになっているので――深夜の時間帯はその機能もオフに設定しているが――部屋は明るいものと思っていたのである。
 シクラがいるはずだからだ。
 いや、いると、思っていた。
「出て行ったんだ」
 約束はしていない。朝は、話してすらいないのだから。
 玄関で立ち尽くしたまま、もしかして夢だったのではと考えてしまう。自分を迎えるのは、シクラがいる部屋ではない。作業をするスペースと寝る場所だけが確保された、散らかった部屋なのだ。
 足を踏み入れる。
 照明が、段階を踏んで明るくなる。
 キッチン。
 作業テーブルと、ふたつのチェスト。
 大きな椅子。
 そして、ゴミ箱。
「なに、これ……?」
 思わず、声がこぼれた。
 すっかり片づけられている。
 昨日は、足場だけ確保したような状態だったはずだ。それが、見事にきれいになっていた。
 よく見ると、大きくふくれ上がったゴミ袋が四つ、並んでいる。
 こちらに背を向けていた椅子がくるりと回転し、そこに座ったシクラが重たげな両腕を天井へ伸ばした。
「おかえり、クロエ。遅かったねえ」
「出てったかと思った」
「なんで? おれ、ここの鍵を開け閉めできないよ」
「そうか、なるほど」そういう問題なんだ、と納得する。
 登録されたデバイスを装着した腕でなければ開け閉めできない鍵をしているのだ。いまや、ほとんどの住宅で使われている。内側から開けるぶんには自由なはずだが、シクラは出て行った後のことを心配したのだろう。
「お世話になったお礼と言ってはなんだけど、片づけました。変なところは触ってないから大丈夫」
 床が見渡せる部屋は、いつもよりも明るく感じられた。
「ありがと……お?」
 洗濯したまま散らかしていた衣類が畳まれて、山をつくっている。
「それはどこへ仕舞えばいいかわからなくて」シクラはにっこりと笑った。「そうだ、形が崩れていたから、買い換えたほうがいいと思うよ」
「ああ、もう、大きなお世話よ!」
 部屋に来たときに下着が見えないようにしていたが、すべて畳まれたとなっては無意味だ。
「シクラって案外、平然とセクハラするのね」
「ちょっとはドキドキしたよ」
 反撃の糸口を探そうとしたクロエだったが、口をつぐんでしまう。
「ばかじゃないの……」
 手に持った荷物をキッチン台に乗せ、シクラの着替えが入った袋を放り投げた。
「着替えてよ。その格好だって、セクハラなんだからね!」
「え? なにこれ?」
 シャツと下着姿のままのシクラは、それを受け取ってなかを見る。
「だから、着替えよ」
「いいの? あ、もうジーンズは乾いてるんだけど……」
「わかってるよ、それくらい。下着とシャツの代えがないでしょ。サイズは適当だけど」
 たぶん気に入るだろう。クロエには確信があった。
 キッチンへ戻り、コーヒーメーカをセットする。ずいぶんきれいになっていて、シクラは掃除の才能があるかもしれないと思った。
 四年前のシクラは、十四歳であるにも関わらず、自身の作品を踏まれても嫌な顔ひとつしなかった。だからクロエは勝手に、大人びた人柄を想像していた。インタビューや授賞式でのコメントも、自分よりずっと色々なことを考えているのだとうかがい知ることができた。
 しかしいま、こうして目の当たりにしている彼は、それとはまったくかけ離れている。あまりにも無防備だ。
「ありがとう、クロエ」
 声に顔を上げると、ムラナ・ヨーコがデザインしたシャツを着たシクラがいた。
「うん」想像通り、よく似合っている。
 本当に、ただお金に困ってデバイスを手放したのかもしれない。
 学校で聞いたところによると、シクラの両親は五年前に離婚しているらしかった。飛び級をしてまでコンテストに出たのだって、おそらく学費免除が早急に必要になったからなのだろう。
 クロエは、はちみつ入りのミルクを差し出す。
「シクラ、あのね」
「? うん」いただきます、とつぶやいて、彼のくちびるがカップのふちに影をつくった。
「デバイスを再発行する手続きをしたの」
「ああ……」
「ここに連絡がくるから、それまで……」手に持ったカップのコーヒーに映りこんだ自分を見る。「出ていかないで」
 最後はささやくようになってしまった。
 勝手なことをしたと怒られるだろうか。あきれられるだろうか。しかし、おそらくきっと、シクラは自分からデバイスをつくったりはしないだろう。それは、確信に近い予感だった。
 そうして生きていくことが許される社会も、もちろんある。しかしクロエは、こちら側の人間なのだ。そしてシクラもまだ、こちら側に踏みとどまっている。ならば、必要になるときが、きっと来る。手放すのなら、正規の手続きを踏んでからでも遅くはない。
 コーヒーに映った自分が揺れて崩れるさまを眺めているクロエのデバイスに、シクラの長い指が触れた。
「クロエ」かすれた声で彼は言った。「おれは、なにも返せないよ」
 感情のない声だった。
 いや、なにかははらんでいた。けれどもそれを抑えつけたような、抑揚のないものだった。
「うん」
 クロエはただ、うなづいた。

*

 〉本当に、シクラ・ナオキ? インタビューさせてくれるのなら、ギャラ払うぜ。そこそこ話題になるだろ。
 〉学校に連れてくればよくない? 先生ならなんとかしてくれるでしょ。
 〉学生ならデザインの仕事を回せます。詳細は@@@まで。
 〉シクラ・ナオキの連絡先知りたいです。
 〉それより、どうしてマリがナオキの連絡先を知ってるわけ? 一年間の沈黙を、マリが破ったの? どうやって? そっちのほうが気になるカレンちゃんでした。にこにこ。

 シクラ・ナオキというテキスト情報を付加して仕事を募集するメッセージを流すと、一晩で期待以上の反応を得られた。
 もちろん証明として、オークションで落札した彼の作品の写真もつけた。ハンカチサイズの小さなものだが、見るひとが見れば、シクラ・ナオキだとすぐにわかる。あのときのクロエのように。
 学校のネットワークを借りたので、そちら側のアプローチが多い。
 もちろん、計算の内だ。
 このままプレビューを獲得しながらすこしずつ情報を増やしていけば、もっと大きな仕事も得られるかもしれない。
 いきなり大量の情報を持たせるよりも、狭いエリアから始めたほうが、埋もれにくいのであった。長期的に増え続けるプレビュー数は、知名度の目安となるからだ。
「シクラ、あなたと仕事をしたいってひとがいるんだけれど」
 まだ早いかと思ったが、悪くない内容の仕事ばかりだ。クロエは椅子を回転させて、イーゼルに向かっている背中に声をかけた。
「おれと? なんで?」
 シクラを部屋に招き入れて、一週間が経とうとしている。
 そのあいだに彼は、冷蔵庫に大量のコーラを買い入れて――クロエが彼の作品に支払ったお金がすべて使われた――部屋の一角に寝場所をつくり、クローセットからクロエが使わなくなった壊れた絵の道具をみつくろって、修理している。
 いまは、足が開かなくなったイーゼルに手をつけているようだ。直ったら、リサイクル・ショップに売りに行くのだと話した。他にも割れたパレットや古い木片、刃こぼれしたナイフなど、シクラは器用に直していく。
 クロエはその手さばきに感心し、その行為を許した。
 絵を描くのかと思っていたクロエは、そんなシクラにいささか虚を突かれたのも事実だが、彼は、描いたりはしたくないのだと話した。
 理由はわからないが、スケッチブックや鉛筆を渡しても、まったくさわろうとしない。
 クロエは、そんなシクラをもったいないと思っている。
「みんな、あなたに興味があるのよ」
 うそではない。
 同じコンテストに出品していた者は、突然、横から最優秀賞をさらっていった彼の名前を、忘れてなどいない。
 シクラはドライバを右手に持ち替えて、床に置いたままになっているコーラのボトルを取った。キャップが開いたまのそれをあおって、首をかしげる。
「わからないな」
「なにが、わからないの?」
 喜ぶかと思ったのに、反応がいまいちだったため、クロエも一緒になって首をかしげなければならなかった。
 ものを売るということは、お金が必要だということだから、効率が良いほうがいいのではないだろうか。
「自分のこともあるのに、どうしておれの心配をするの? 学校の課題も、コンテストだって近いんでしょう? クロエはおれなんかよりもずっと忙しいんだから、気にしないで」
 ところが、シクラから発せられた言葉は、クロエの親切心をかわすものだった。
 好き勝手しているように見えるシクラであったが、多少の遠慮はあるらしい。あれからも部屋の掃除は続けられ、料理も多少は――すくなくともクロエよりは――できるらしく、インスタント食品が減った。彼は時計を持たないのに、時計を常に身につけているクロエよりも規則正しく寝起きし、そのためクロエの生活リズムも改善傾向にある。
 ついこのあいだまで、軽犯罪を繰り返しながら、宿もなく生きながらえてきた人間とは思えない。
 シクラになにがあって、そんな生活を強いられてきたのかはまだ聞いていないが、本来は真面目なのだとうかがい知れた。
「それは」
 クロエは右手のデバイスをいじった。
 正しいことを言われてしまって、なにも言葉が返せない。
 コンテストは、結局、前向きに制作を進めている。そうしなければならない空気に、抵抗できなかった。招待状は、来週には送付されるという噂である。来なければいいと、こころのどこかでは思っている。
「なるべく迷惑はかけないようにするからさ」
 シクラは使い古した包装紙を広げた上に座る。
 違う。
 迷惑、ではないのだ、自分で引きとめているのだから。
 けれども沸々と湧きあがる感情は、いらだちと似ていた。
「もっと、」言葉を選んで、吐き出す。「広く、あなたの作品を知ってほしいの」
 そのためには自分の時間なんか、惜しくない。その世界に浸っていられるのなら。
 声になりきれなかった感情が、行き場を失くして咽喉の奥に引っかかっている。クロエの視線は落ちたまま、昼も夜も変わり映えのない床を眺めた。
「ごめん。クロエには感謝しているけど、仕事は自分で選びたい。クロエはおれを過大評価してるんだ」コーラで口を湿らせて、続ける。「媚びたくないんだよ、媚びる相手を、間違えたくないんだ」
 ボトルを置いて、ドライバを左手に握り直すと、彼はこちらに背を向けた。
 きっと、考え抜かれた言葉なのだろうとクロエは感じた。否定する隙さえも、見当たらない。
 この一週間、ではない。
 きっと、四年間、そういったことを常に考えてきたのだ。
 十四歳の頃から、一部の注目を欲しいままにしてきた、ひとりの少年。
 どうしてこんなにも、生きることが下手なのだろう。
 ならば、絵を売ることもいやなのだろうか。
 学校という囲いのなかで、生活のことなど気にもせずに描き続けることが幸せだと思っていた時期が、クロエにだってあった。そのまま自分の世界を育てることが、アイデンティティなのだと。
 けれどもそれだけではないと気がついた。
 それはカリキュラムであり、同じコンテストに敗れたかつての同志であり、新たな友人であり、恩師であり、家族がいたからだ。
 認められる喜びと、次へ繋がっていく楽しみは、ひとりでは得られないものだった。
 ああ、そうか。
 彼はそれを知らないから。
 だから、あんなにも無垢な色をつくれるのかもしれない。
 守りたい、と、クロエは思った。
 その色を、守りたいと。
「結婚しようか」
 ぽつりと、またたきのように、言葉がこぼれた。
「そうすれば、あなたは生きることに困らないでしょう? そうすれば……」
 静かだった。
 どうしてこんなに静かなのだろう、と、考えてしまうほどの静けさが、埋められない時間となって、ふたりのあいだを満たした。
 答えはわかっている。
 逃げるようにして、椅子を回転させた。
 テーブルには、新たなメッセージが届いている。ひとつひとつに断りの返事を書かなければいけないことを思って、額を押さえた。
 椅子が揺れる気配があって、そのテーブルに影をつくった。
 覗きこまれている気配。
 呼吸の音が、ゆっくりと近づいてくる。
「ご、ごめん、忘れて」
 抗うような、それはちいさな叫びだった。
 モニタを操作しようと手を伸ばすと、それを、シクラの、なんの縛りもない広い手が覆った。
「クロエ、おれはね――」
 ピピッ……ピピッ……
 ちいさな告白の先は、アラームによって途切れた。
 シクラは椅子の背から手を離し、イーゼルのほうへと戻っていく。
 もう二度とつむがれないだろう言葉の先を失ったことに、クロエは安堵していた。そもそも、恋人同士ですらないのだから。
 デバイスを操作すると、無機質な音声のメッセージが、無線でつながっているテーブルのスピーカから流れた。
「シクラ・ナオキさま。レゾン・リンク・デバイスの再発行の手続きが完了いたしました。明日午後十時までに、役所までお願いいたします。その際に持参していただくものは――」

 翌日、シクラの右の手首に、デバイスが巻かれた。
 慣れないらしく、しきりに触っている。
「どれくらいなかったんだっけ?」
「一年くらい」
 そんなに、とクロエはまぶたを閉じた。
「どうして手放したか、聞いてもいい?」
「べつに、隠すことでもないよ」
 そんなことか、とでも言いたげに、ふっと、シクラは笑みをこぼした。
「進学してからしばらくは、何事もなかったんだけど、誰が話したのか、素性が周囲に知れ渡ってしまって……」
「素性って?」
「家庭の事情だよ」
 煮え切らない返事だったが、クロエは黙ってうなづいた。
「そのせいで、個人的な仕事を依頼されるようになった」
 なるほど、クロエが見たことのある彼の新作は、このあたりのものなのだろう。
 いくら国からの労働が免除されたと言っても、学生も働くという認識がすっかり定着した今日では、珍しくないことだ。学校を通さないだけあって、ロイヤリティを取られない分、本人の取り分も大きくなる。
 もちろん、あまりにそちらの活動が目立つと、学校から指導が入ることになっている。
 シクラは値段のことなどわからなかったから、とても安く引き受けていたようだ。勉強もしながら、断れなくて、デバイスも一日中鳴っていた。
「友人が、……おれの絵で、とても儲けてたらしいんだ」
 忙しくて、次から次へと舞い込むものを片づけて行くなか、いまやっているのが仕事なのか、課題なのか、誰に見せるものなのかもわからなくなっていた。
 だから、その友人から振り込まれる値段の大きさに、彼はなかなか気づけなかったのだ。
 いわゆる、闇商売だった。
 それが警察にばれて、友人は捕まり、彼も金銭を受け取っていたので連行された。大きな問題にはならなかったが、学校からは強く指導された。情報が外部に漏れなかったのは、それが学内で起こったものだったからなのだろう。クロエは初めて聞かされるそのことに、言葉を失った。
「賠償金とか払ってると、スッカラカンになっちゃって。いっしょには住んでないけど、母方にばあちゃんがいてね、小さい頃からおれを甘やかすんだ。でもこればかりは迷惑はかけたくなかったから……家にはなにも言わずに」
 デバイスは、結構な値段で売れたと言う。
 それでしばらくしのげたけれど、やっぱりお金は無くなるように出来ている。働かないと、食べられないんだと、思った。でもおれ、もう、働きたくなかったから。……
 デバイスの設定をしながら、ぽつりぽつりとシクラは話した。
 クロエはただただテーブルに向って――やや上の空で仕事をこなしながら――それを聞いていた。
「ばあちゃんに、連絡しなきゃね」シクラがひとしきり話して黙ると、クロエはそうつぶやいた。
「クロエを紹介したら、きっと喜ぶよ」
「え?」
 どういう意味だろう、と考えてしまう。
「クロエって、ムラナ・ヨーコのファンでしょう?」
「うん?」話が見えない。
 意味を問おうとシクラに視線を向けると、聞き慣れたアラームが彼のデバイスから発せられた。
 同時に、クロエのデバイスも鳴る。
「えっと、こうかな」
 あわててそれを操作して、シクラは右の小指を耳へ入れた。
 クロエも同じようにする。
「コンテストの案内だわ……」
 抑揚のない事務的な声が、一方的に流れてくる。招待状だ、ついに届いてしまった。きっと、学校に恥をかかせてしまうだけだなのに。
 けれどもこれで、シクラの新作が見られるかもしれない。
 シクラがどうして制作をしたくないのかはわかった。
 だが、コンテストとなれば、話は別だろう。彼は真面目だから、きっと期待にこたえようとするはずだ。
 そう思うと、なんだかクロエもいますぐ制作を始めたいような気持ちになってくるのだった。
 不思議だ、シクラの作品のことを思うだけで、こんなにも気分が明るくなる。
「ねえ、シクラ、学校はどこだっけ? 遠いのなら、一度、うちの学校に来るといいわ。そこから連絡をすれば……」
 クロエは立ちあがって、シクラのところへ行った。
 しかし、シクラは首を横に振るばかり。
「だめだったよ、警察沙汰が影響してるんだね」
「あ、……そう、なんだ」
 ふつう、最優秀賞ならば招待状が届くはずだ。
 シクラは落胆した様子を見せなかった。むしろ、ほっとしたような雰囲気がある。
 きっと、届いてほしくなかったのだろう。
 クロエは自分のデバイスを見た。
 どうして、自分には届いたんだろう……どうして。
 その後もシクラのデバイスは鳴り続けた。学校からの連絡が主のようだ。ひとつひとつ、デバイスから発せられるわずかな光の画面でこなすのは大変だろうと、クロエはテーブルを明け渡し、買い物をするために部屋を出た。
 帰るとシクラはいなくて、けれども部屋の鍵をかけられるように設定していたため、開け放しということはなかった。
 いつもは出かけたら玄関で待ち合わせていっしょに部屋へ入るか、どちらかがずっと留守番をしている状態だったため、誰もいない部屋というのは久しぶりだ。
 しかし、これですこしは彼が社会に近づいたのかと思うと、それはそれで達成感に似たものがある。
 彼にとって、あまり帰りたくなかった社会かもしれない。けれど、なにか――学校なり、仕事なり、結婚なり――で繋がっておかなければ、この世界に居場所なんか、ない。
 一か月は、まだ経っていない。
 けれどもそれに近い時間、ずっといっしょにいた。
 生活はすっかり変わってしまった。
 テーブルに向かい、課題をこなす。
 コンテスト用のものだ。
 教授や友人から、期待と祝福のメッセージがたくさん届いている。
 コーヒーを飲み、簡単な食事で胃を満たす。
 制作を続けていると、夜を告げるアラームが鳴り、同時に照明が一段階暗くなった。
 シャワーを浴びて、ロフトに上がる。
 シクラが来るまでは、夜通し作業など珍しくなかった。
 食事もシャワーも、気が向いたときに済ませていた。
 けれどもいまや、このリズムはすっかり身に馴染んでいる。いや、崩れるのは、時間の問題だということはわかっている。けれども意識して続けられる限りは続けたい。
 何故だかクロエはそう思った。
 きっと彼は、あるべき場所へ帰って行ったのだ。
 ナンバーを教えてあるから、きっとそのうち、連絡をくれるだろう。
 だから翌日も帰らないシクラを、不思議に思うことはなかった。
 しかしふと、デバイスを眺めている自分がいる。
 会話も音もない部屋の中で、アラームの気配を覚えて視線を落としている。
「ああ、もう……」
 集中できない。
 椅子にもたれる。そのテーブルには、いつか彼のためにと思って仕事を募ったときに届いたメッセージ。
 すでに断りを入れてあるのに、もしかしたらとシクラの影を探していたのだ。
 どうして自分は、ナンバーを聞いておかなかったのだろう。
 仕事は、学校から注意されたため、もう新しく請け負っていない。いまは、コンテストのことのみに専念するよう言われている。
 けれどもまったく、そういう気持ちになれない。
 むしろ、関係のない、淡々とした作業で気を紛らわすことが出来たなら。
 ただシクラが傍にいるだけで、まるで地下水を掘り当てたように、こんこんと沸き上がっていたアイデアが、うそのように枯れている。
 アイデアノートを見ても、同じ。そのときは鮮やかだったものが、いまでは褪せて見えるのだった。
 クロエは、おそらく彼の最新作であろうオークションで落札した作品を取りだした。
 どう保存すべきか悩む、正方形の布地。でこぼこになった絵の具が、見る角度によってまったく違う表情を見せる。
 ピピッ……ピピッ……
 そのとき、電子音が突然鳴り響いた。
 はじかれるように反応する。
「はい……あっ」
 手が、すべった。持っていた布を、取り落としてしまった。
「カレンです。マリ、また欠席続き。どうした? みんな、心配してるよ」
 はがれていない。大丈夫だ、大丈夫。
 表面をなぞって、その感触をたしかめる。
「うん、制作が」
「カンバスは学校にあるのに?」
 カレンの言葉が、まるで水の中のようにくぐもって耳へ届く。
 ああ、だめだ、話せない。
「ごめん、切るね」ため息のような声が漏れた。
「マリ? マ――」
 一方的に通信を切る。続いてメッセージが届いたけれど、クロエはそれを確認する気になどなれなかった。
 まだ、二日しか経っていない。
 それなのに、この変わりようはなんだろう。なにもアイデアが沸かない。うそのようだ、このあいだまで、毎日のようにスケッチブック一冊を描き潰していたというのに。
 クロエは生活環境だけは崩さないように注意しながら、それからまた二日、過ごした。
 そして、シクラが出て行って四日目の、深夜。
 ロフトですっかり寝入った頃――
「ひゃっ」
 つめたい、
 背筋がぞっとするようなつめたさに、身体が反応する。しかしクロエはまだ、まどろみを拭いきれずにいる。
 早く目を覚まさなくては。
 頭ではそう思っているのに、まぶたが持ち上がらない。
「なに?」
 上手く舌も動かない。
 咽喉が開いたまま、抗いの言葉をくちにする。
 そしてつめたさはくちびるに押し当てられ、息苦しさにもがいた。
 背中を抑えつけられる。
 これは、夢?
 それとも……
 はっと呼吸が戻ってきて、やっとのことで瞼をこじ開けた。
「シクラ?」
 身体中がつめたいのは、彼がぴったりと密着しているせいだ。どんどん温度が奪われてゆく。視線の先は、暗がりでわからない。
 頭が痛い。
 背中に腕を回されているため、逃れられない。
 再び、彼の影が迫る。
「やだ」
 起き抜けで力の入らない腕を精一杯伸ばし、その肩を遠ざけた。
 やっと目が合った、と思った途端、クロエはいま自分が言ったことを後悔した。
「あ……、ごめん」
 頬が、濡れている。
 そればかりではない、全身が、濡れている。
 そうだ、今夜は、雨。
 歪んだ眼鏡の奥の瞳がまたたいた。
 何度も。
「ごめん。ごめん、クロエ。おれ……」
 彼が身につけている服は闇にまぎれてしまいそうなほどに黒い。
 逃げるようにして、シクラは階段を下りていった。クロエは後を追おうと身体を起こし、はっとする。
 布団の端がすっかり濡れそぼっており、彼がそこで過ごした時間を物語るかのように、フロアには冷え冷えとした水たまりが出来ていた。
 そこには、おそらく彼のポケットからこぼれたのであろう一枚のハンカチ。
 手にとって、すぐにわかった。
 ムラナ・ヨーコの最期の作品。
 そうか、あれは、喪服だったんだ。

 翌日、朝のアラームと共に、クロエは階段を下りた。
 床に座ったシクラは立ち上がり、クロエにまっすぐ頭を下げて謝った。
 それ以外は、なにも話さなかった。
 シクラはそれからずっと、カンバスに向かい続けた。

*

 一体、一日で何冊のスケッチブックを潰すのだろう。
 クロエは鉛色に汚れた大きな左手を眺めながら思った。
 休まることのないその手は決して鉛筆を離さず、彼は右手で前髪をおさえ、コーラを飲み、スケッチブックをめくるのだった。
「クロエの言うとおりだ。これがないと、おれは大切なひとの死にも気づけない……」
 食事を渡すとき、彼はばつが悪そうにそう漏らした。
 ムラナ・ヨーコが彼の母方の祖母だということは、一般に知られていないことだった。彼女の息子夫婦のほうが、メディアによく取り上げられるせいかもしれない。
 クロエは彼から聞かされたその事実を、黙って受け止めるしかなかった。まるでもがくようにスケッチブックにすがりつく彼の背は、本物に違いなかった。
 クロエも左手に鉛筆を握らざるを得なかった。
 描かなければならないと、強く思った。
 守り続けていた生活環境は、簡単に一変した。
 食事はインスタントになり、誰もロフトで眠らない。照明は常に明るく部屋を照らし、昼なのか夜なのかもわからない日が何日も続いた。
 服も着替えず、シャワーも浴びず、片付いていた床にはゴミが散乱し、買いためていたスケッチブックの山が崩れても、誰も直さなかった。
 本当は、わかっていたのだ、頭のどこかで。
 シクラが制作をせずに家事をし続けるなんて、あり得ないことだと。
 あれは、シクラではない。
 スケッチブックと鉛筆を渡しても見向きもしないシクラなど、シクラではない。
 制作をし続ける二人の生活など、長く続くわけがなかった。
 だから、短い買い出しから戻った部屋に彼がいないことに、クロエはあまりショックを受けなかった。
 見送らせてくれなかったことに対するさびしさもなかった。
 わかっていた、お互いに。
 もう限界だということくらい。
 テーブルのディスプレイには、感謝を述べたメッセージと、彼のサインが残されていた。
 クロエは椅子に座りこんで、ひとり散らかった部屋を眺めた。
「せめて、片づけてくれたら良かったのに」
 彼のために買ったコーラ。
 どうすれば、良いのだろう。
 クロエは身支度もしないまま、外へ飛び出して駅へ向かった。地下鉄の窓に映りこんだ自分の顔の、なんとひどいことだろう。でもあのままあそこにいたら、きっと動けなくなってしまう。それは間違いのないことだった。

*

 実家に帰っても、クロエはぼんやりと過ごした。
 学校へも毎日通っている。
 カレンと談笑して気を紛らわせる日々だ。彼女は何も質問をしなかったため、それが良かった。
 コンテストへの制作も、もちろん進めていて、順調だ。
 けれど、どこかでなにかを求めている。
 違うのだ。これではない、と。
 クロエ・マリらしさが良く出ているという声もあれば、あまりにも型にはまりすぎているという声もあった。きっとどちらも正解なのだ。
 そう、クロエは、自分の作品に慣れすぎた。
 でもなにが違うのか、わからない。
 しかし、もう参加する理由も見失ったコンテストなのだから、それを探す意欲も沸いてこないのだった。
 購買へ行って、鉛筆を買う。
 ピピッ……
「はあーい」
「おお、マリ、おれ」
「久しぶり」学友だった。
「おまえ、ほんとにシクラ・ナオキと知り合いだったんだな。仕事させてもらったよ。サンキュ」
「え?」思いがけない言葉に、立ちすくむ。
「ほいじゃ、連絡だけ」
「ちょっと、待って……」
 一方的に通信を切られ、クロエはデバイスを棒状に伸ばして画面を呼び出す。
「サーチ。シクラ・ナオキ」
 するとそこには、あのときクロエが募ってすべて断った仕事に関する情報が、一覧となって現われた。
 そのひとりに確認をしてみると、つい先日、シクラ本人からコンタクトがあったのだそうだ。
「丁寧に謝られて、もしよければもう一度チャンスをくれって言われたよ」
「シクラ……」
 先ほど連絡をくれた学友が手がけたシクラのインタビューが、画面の端っこに表示されている。
 クロエはそれを拡大して、再生した。

 部屋へ戻ろうと思った。
 あの、短いあいだ、ふたりで過ごした部屋へ。
 階段を下りて、ノブを握るとロックが外れて扉が開く。
 片づけから始めなければならない。そう考えると、憂うつな気分にもなる。けれど、コンテストに、きちんと作品を提出したいのだ、とても。
 きっといまのカンバスをシクラに見られたら、手を抜いていると見抜かれる。
 そしてまた、違うだろうと言われるのだ。
 胸を張って、彼に見せられる作品をつくれたなら。
 足を踏み入れた。
 その動きを感知して、照明がつく。
「えっ……?」
 クロエは動きを止める。
 手に携えたコーヒーの袋が、音を立てて落ちた。
 ゴミはなく、崩れていたスケッチブックもイーゼルも片づけられ、散乱していた衣類も床から消えている。
 コーラも。
 あのとき、置いて帰ったはずのコーラも、ない。
 変わりにそこは、アオの世界。
 吸い込まれるように、一歩、踏み出す。
 ああ――
 彼だ。
 すぐに、わかった。
 目を細める。
 そうだ、この世界に、四年間も焦がれていた。
 下地となったムラナ・ヨーコの作品タイトルを、クロエは知っている。
 思わず、笑みがこぼれた。
 そうだ、立ち止まってなどいられない。
「きみを運ぶ風となりますように」
 クロエはそっと、その布に腕を差し伸ばす。
 どこか、遠くへ……、
 自分のなかから沸き上がる、真新しい世界へ。
(2012.09.02)
「銀のリナリア」寄稿作

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