これから朝が訪れる

1エレナ

 私は今夜、世界中のどこにもいないんだ。
 服の袖をきつく噛む。
 理由なんてわからない。ただそういう気持ちでいるほうが、安らかな眠りを得られる夜がある。
 ここのところは毎晩だ。
 きっと、あの子と話したから。
 ザヌーレ通りの公園で、夕方、猫を撫でている女の子を何度か見かけたことがあった。たぶん歳は私と同じくらい。彼女は無造作に巻いた濃い緑の襟巻きから長い赤毛をこぼれさせ、公園横のアパートからやって来る。
「ねえ、一緒に餌をあげない? 私はエレナよ」
 何日か前のことだ――私はここずっと、日を数えるのを忘れている――突然、彼女に話しかけられた。
 彼女は私を真っ直ぐに見て、そばかすの浮いた白い頬を丸くして微笑んでいた。誘うように差し出された手には、魚の燻製。
 驚いた。彼女が話しかけてきたことにも、猫があんなに良いものを食べているということにも。
 私は逃げ出した。
 答えようとして気がついたのだ、私、名前を忘れている……。夜にはやっと思い出せて、彼女にうまく名乗れるか、頭のなかで考えた。もちろんいくら考えたとして私の足がザヌーレ通りに向くことはなく、数日が過ぎるうち、あの出来事は夢なのだと思うようになった。……夢であればいいのに。幾重にも重なった薄い布団を抱きしめる。知らない誰かの寝息が、静まりかえった闇に溶ける。
 静かに息をはいて、もう一度、一語一語ゆっくりと唱える。
 私はこの世界中のどこにもいない。エレナのこころのなかにも。

2名前

 朝、いつものように夜明け前に目を覚ます。
 起こしてくれる人も、時計もない。でも、同室の人たち――一部屋に女ばかりが十人ほど――も起き出すから、寝坊はしたことがなかった。
 枕代わりに丸めた外套に袖を通し、所々がほつれた手袋と帽子を身につけると、寝台を降り、盗まれないようにと履きっぱなしの靴の紐を結んで外へ出た。
 絶え間なく雪が降り注ぐなか、近くの広場へ向かってゆっくり歩く。歩くときは、歩くことしか考えない。広場についたら、配給所の雪かきを手伝って、一杯のシチューと仕事の切符をもらう。切符には一枚一枚に時間と住所が書かれていて、その先々で洗濯婦として仕事をこなす。夜はまた、所有者のいない民家で知らない女の人たちと眠る。
 いつからこんな生活をしてるんだっけ。そんなに長くない気もするし、ずっとこうしている気もする。ここで冬を迎えるのは、たぶんきっと、初めてだ。
 私はもらったばかりのシチューを、立ったままゆっくりと時間をかけて飲んだ。
 今日の具は空豆がふたつ。当たりだ。皮がついたままになっていて、ひとつは飲み終わったあともしゃぶり続ける。昼くらいまで我慢して、くたくたになった頃に飲み込むのだ。
 うつわを返して、仕事の切符を受け取った。
 今日も三枚。まえは五枚か、すくないときでも四枚だったのに、いつのまにか三枚から増えなくなっている。
 その最後で、手が止まる。
「じじゅ、十一時・から、……ザヌーレ通り、メザンアパー・ト一〇一号室……?」
 濃い緑、こぼれた赤毛。手袋は茶色で、そこに握られていた、ひとかけら。
 私は空を見上げた。
 雪は、やんでいた。

 十一時、大通りの時計で確認をして、メザンアパート一〇一号室のドアを叩いた。アパートは三階建てで、一階は二部屋だけのようだ。ここは他のドアよりも大きくて色もちがうから、たぶん、管理者が使っているんだろう。出てきたのは細身のおばあさんで、杖を使ってやっと歩けるといった様子だ。私みたいな掃除婦も使い慣れているのだろう、かんたんな言葉と文字で、やることなどが書かれた覚え書きをくれた。
 家のなかは部屋がいくつもあったが、おばあさんひとりのようだった。ほっとした。あの子はきっと、違う部屋の住人なのだと思った。
 でも一時間もしないうちに、私の予想は外れたのだとわかった。庭の水場で洗濯物を踏み絞っていると、公園を横切るエレナが見えたのだ。どきりとして、見つからないように裏戸から部屋のなかへ入ると、そこにはすでにエレナがいて、外套を脱ごうとしているところだった。
「あら……」
 手を止めて、彼女は明るい色の目を瞬かせた。
「あ・あああの、このあいだ・は」
 逃げたことを謝らなきゃ。
 そう思っても、言葉は出てこず、まるでため息みたいな音がもれるだけ。目をぎゅっとつむった。ごめんなさい。ごめんなさいって、どう言えばいいんだっけ。
 手がふと暖かくなる。と同時に、引っ張られた。
「まっ赤じゃないの。傷もある。薬を持って来てあげるわ」
 目を開くと、エレナが私の手を取ってじっと見ていた。そしてあのときのように、微笑んだ。

 仕事が終わると、エレナは約束通り薬を塗ってくれた。土色の、とろりと冷たい軟膏は、傷口だけには熱かった。
「私の家が今日の最後で良かった。まだ仕事があったら、塗ってあげられないもの」
 エレナはそう言って、暖かい飲み物をくれた。口に含むとほの甘くて、すぐに飲みきってしまいそう。
 こぢんまりとしたリビングは、私が知っているどのリビングよりも小さく、そして清潔に片付いていた。さっき出掛けたらしいおばあさんが、動きやすいようにしているんだろう。壁には写真が飾られていて、角には、高さのある鳥籠がある。なかには一羽、襟首が緑で羽が赤い鳥がいた。
 私の視線に気がついたのだろう、エレナは籠の扉を開け、入り口に指を差し出す。
「おいで」
 エレナのつつくようなしぐさで誘われたように鳥が出てくる。大きさは、肘から指先くらい? 身体はその半分ってところ。
「キーシャよ。あいさつして」
 エレナの腕に移った鳥はちょんちょんと首を傾げながら、「コンニチハ。キーシャ、ワタシ、キーシャ」と繰り返した。
「こ、ここん、にちは」
 驚いて思わず返すと、エレナは声を上げて笑った。
「かわいいでしょ。きょうだいがいないから、キーシャが私の妹なの。ねえ、あなたのことも教えてちょうだい。まずは名前ね。これから一体、なんて呼べば?」
 私は視線を下げた。エレナの胸元に抱かれたキーシャ。彼女の自己紹介を、思い浮かべる。
「わ、わわ」声が、うわずる。「わーわたしの名前・は、レ・イラ。レイラよ。このあいだは、その、ご、ごめん・なさい。おお驚いて、逃げてしまって。気を悪く・した?」
 小さく息をついて、唇をなめた。
「ありがとう、レイラ。ゆっくり喋っていいのよ」
 エレナはキーシャを撫でている。

 午後から洗濯物を取り込むためにもう一度行くと、エレナが待っていて、私の仕事を急かした。公園に行きたいらしかった。
 公園にはあの猫がすでにいて、雪のない石畳で陽の光を浴びている。
「はい、これ」
 エレナは私に、魚の燻製をにぎらせた。ああ、そういえば、一緒に餌をやるという話だっけ。でも、どうすればいいのかわからない。近くにいくと猫は離れていき、うなり声をあげるばかりだ。
「ちょっと貸してみて。警戒してるだけ。慣れるまでやり続けるのよ」
 エレナは燻製を取り、猫の前で揺すった。
「サザ、おいで」
 すると、猫はゆっくりと近づいて来て、背中を丸めて地面の上に置かれたそれにかじりつく。そのあいだに、エレナは灰色の背に手を伸ばし、咽喉元へすべらせていった。
「ね?」
 エレナは歯を見せて笑った。
 私はでも、猫じゃなく燻製ばかりを見ていた。どんな味がするんだろう。
「エーエレナの猫な・の?」
「ううん、サザは向かいのレスターさんの子。レスターさんは猫を四匹も飼っている。でも、公園に出てくるのはサザだけよ。他は雌で、恐がりだから」
 サザ。さっきから繰り返されるその二文字が、この猫の名前なんだ。
 灰色のサザ。雄。大きくて、太っている。
「飼わない、の?」
「アパートだからね。キーシャもいるし」
「ああ……そう。なんだ」
 声が、だんだん小さくなっていく。
 どうして猫を飼わない理由に、アパートとキーシャが出てくるのかわからなかった。なにかはぐらかされた気分。
 もう、もう嫌だ。質問なんて、すればするほどばかにされるんだから。
 そう、ばかに。……誰がばかにしたんだっけ……。
「ねえレイラ」
 エレナの声で、私は現実に引き戻された。なにかを思い出しそうだった。でもきっと、思い出しても仕方がない。過去なんてそういうものなんだから。
「なに?」私はエレナを見る。
「変なことを聞いてもいい?」
 彼女は身体を起こし、前を向いていた。
 振り返らずに、そのまま続ける。
「赤毛だから、掃除婦をしているの?」
 はっきりとした声だった。
 私は口のなかで、その質問をくりかえす。
 赤毛だから?
「ちちが・う、よ。私、私は親がい、なく。て、それ・それで」
 しゃべりながら、頭のなかでいろいろなことが駆けめぐった。
 一体なにから話せばいいのだろう。私はこれまでのことをずっと思い出さないようにしていて、忘れていたことすら忘れていたのだ。整頓していないそれらは断片的で、それぞれいつのことだったのかの手がかりもない。
「ゆっくりでいいわよ、レイラ」

3レイラ

 結局、きちんと話すなんてできなかった。私は両親がいなくて――事故で死んで――顔を合わせたこともない親戚の家に引き取られて、小学校に通いながらそこで家事を仕込まれた。
 でも、親戚の家での生活はほとんど覚えていなかった。そこを飛び出した日のことは、はっきりと思い出せたけど。それもエレナと別れた後でのことだ。
 子どものいない旦那様と奥様は、よく旅行で何日も家を空けることがあった。
 私は家事を仕込まれてはいたけど、調理場に入ることは許されていなかった。だからそのあいだは、奥様が出掛けるまえにつくった鍋いっぱいのシチューをすこしずつ食べる。そのときはどうしてか、二人が帰るまえに食べ尽くしてしまったのだ。
 一日は、我慢したかもしれない。でも私は、冷蔵庫を開けた。
 目の留まったのは、ベーコンだった。どうしてベーコンを選んだんだろう、もう何年も、肉なんて口にしていなかったのに。紙包みから覗くその赤い塊を目にしたとき、めまいがするほどの空腹感を覚えたのだ。そしてよく噛みもせず飲み込み、腹を下した。
 今度こそ追い出される――奥様はよく言っていた。お前のことを娘と思っているけれど、気に入らないことをされるととても憎らしくなる、と――私は慌てて身の周りのものをまとめた。
 浅はかだった。たった一切れのベーコンで、私は毎晩の根菜入りのシチューを手放したのだ。

 エレナは別れるとき、また明日ねと言ってくれた。
 翌日、迷ったけど、公園へ行った。彼女は当然のようにそこにいて、私を見つけて話しかけてくれた。それが何度か続き、やがて行けば会うようになり、今度は会えない日を教えてもらうようになった。
 私はそれが不思議で、けれども嬉しかった。親戚の家を出た日のことを思い出してつらかったけど、エレナと会えると思ったらそれもまぎれた。
 エレナも話をしてくれた。学校のこと、クラスメイトのこと、キーシャのこと、初めてサザを撫でた日のこと。特に、おばあさんの話を。
「年明けにね、学校でお祭りがあるの。私、劇で主役をやるのよ。おばあちゃんにも来てほしいんだけど」
 大抵、公園のベンチで話す。
 私たちは両手をお尻の下に敷いて、寒さをしのいだ。エレナのひざには、サザがいる。
「うん」私は、エレナの話にうなずいた。
「無理なの。見たでしょ、足が悪くて」
「えと。え……?」
「人混みを歩けないでしょ。坂道も階段もあるし。転んでしまうわ」
「あーそう、か。そう・だね」
「ママは病気だからね。ここより暖かいところで療養しているの。すっごく田舎。ときどきパパと行くんだけど、本当に何もないの、本当よ」
 愉快そうにエレナは話した。
「お、お、お父さんに・来ても、もらうのは?」
「パパ?」
「その、劇に」
 言うと、エレナはすこし顔をゆがめた。うつむいて、やや巻き気味の赤毛をいじり出す。
「レイラは、パパとママのこと覚えてる?」
 ときどき、突然に、エレナは私のことを聞いてくる。でも、ほとんど覚えていなくて、エレナと会っているあいだに思い出せることはほんのわずかだから、いつも十分に答えられずにいた。
「あんまり……」
 答えてから、考えた。覚えていること。なにか、話せるような……。
「写真、持ってないの?」
 どうだっただろう、きっと親戚の家にはあったかもしれない。でも、見たような気がしない。
 私は首を横に振った。
 サザが起きて、エレナの膝から降りた。それを追って、彼女は立ち上がる。私はお尻の下で握っている燻製を取り出して、さっとかじった。
「パパはね、いつも仕事だからさ」
 エレナが振り返って、目が合った。
「あっ……」
 たまらず、よく味わいもせずに飲み込んでしまって、私はまた「あーっ」と声を上げた。
 ついに、見られてしまった。サザが食べるものだけど、私は我慢できなくて、エレナの目を盗んでは食べていたのだ。
「ご、ごごごめんなさ……」
 顔を両手でおおう。
 いますぐ消えてしまいたい。
 このまま、エレナの前からいなくなりたい。でも公園の出口までは距離がある。雪みたいに溶けることができたらいいのに。そう思っていると、不意に、彼女の笑い声がした。
「アハハ! いいわ、レイラ。明日から、サザとは別にお菓子を持ってきてあげる」
 高い高い笑い声は、冷たい空に響き渡った。
「顔を上げて、今日はもっといい話があるんだから!」
 エレナが私の手をつかんで引っ張ったので、仕方なく立ち上がった。彼女は私よりもすこし背が高い。仕方なく、冷たい空気に頬をさらして視線を上げた。
 もっといい話、なんて。私はさっき彼女が言った、明日からお菓子を持ってくるという話も信じていないのに?
「あなたに、うちの洗濯を毎日任せたいの。毎日よ!」
「えっ、え?」
「おばあちゃんがあなたを気に入ってるの。物を盗ったりしないし、それに、仕事が丁寧だからってね」
「えーえ、あ……」
 本当に?
 言葉はいつまでも咽喉の奥につかえていて、私は意味を成さない声をもらし続けた。

 なんて調子が良いんだろう。
 おかげで私は、毎日屋台で買う夕食のパンを柔らかいものに替え、更にホットミルクを飲むことができた。
 それでも夜は不安だった。むしろひどくなったかもしれない。その日あったことを思い返し、上手く喋れなかった自分をひたすら訂正し続け、エレナの言葉の端々に自分を否定する意味を探しては苦しんだ。これだけの失態をしたのだから、明日こそきっと嫌われる。確信に満ちた思いが胸をつよく締め付け、毎晩、私は世界から存在を消した。
 本当は、幸せなのだ。こんなこと考えちゃいけない。寝るところもあり、仕事もあり、十分な食事もできるんだから。
 幸せなのだ。
 それなのに、どうして。
 どうしてこんなにも苦しいんだろう。袖が口のなかで破ける。どうして私はこんなにも、エレナのまえから消えてしまいたくなるんだろう。

4遊び

 ところが一ヶ月も経つと、エレナと会える時間は減っていた。
「もうすぐ年末だから、残って練習してるのよ」
「え? 毎日?」
「そうよ。どうして?」
 思わず声を上げると、すぐにまた、エレナが早口で返した。見ると、白い顔で私をじっと見ている。
「別に……」
 私が答えると、エレナはベンチに腰掛けた。
 晴れ続きもあって、このごろ雪はすくなかった。けれども空気は冷たい。私もお尻の下に手を敷いて、なるべく浅く腰掛けた。
 エレナは嘘をついている、と思う。学校になんて、ここ数日行っていないはずだ。午前中、奥の部屋で――私は入ったことがないし、もちろん入る理由もない――閉じこもっている気配があった。病気をしているのかと思っていた。
「はい、今日の分」
 エレナは薄い紙に包まれた何かを差し出した。お菓子だ。サザが足下で物欲しそうにこちらを見ている。
 私は慎重に身体を動かして、右手だけでそれを受け取る。
「ありがとう」
 きっと、知らなくていいことなんだ。関係のないこと。それでもエレナはこうやって、私と会ってくれるのだから。
 包み紙のなかは、シフォンケーキだった。
「あげないよ」
 こちらを見るサザに小声で言って、食べ始める。甘い。ミルクが欲しくなる。
 午後に公園で食べるお菓子は、お店で買ったものもあったが、おばあさんが手作りしたというものもあった。これはきっと、手作りのほう。
「美味しい?」
「うん」
「これも食べていいよ」
 エレナは持っていたもう一つの包みを差し出した。
「いいの」
「いいわ。嫌いなの、にんじん」
「にんじん?」
「入っているのよ」
 言われてみれば、ほんのり赤いかもしれない。
 お尻が冷えるから一つ一つ分けて食べたかったけど、エレナが押しつけてくるから、仕方なく左手も出した。
「ありがとう」
 背筋がきゅっと冷えた。すぐに食べてしまうのはもったいなかったが、腰を浮かしながら頬張る。
「手袋、ぼろぼろね。帽子も」両手をお尻の下に敷いたエレナは言う。「寒いんじゃない? いつもお金、どうしてるの」
「屋台で、ご・ご飯を、買ってる」
「そうじゃなくて。掃除をしてくれたときに渡してる分は?」
 もしかして、キーシャの籠や、長く使っていないという暖炉を掃除したときの分のことかな。普段は洗濯だけなので、掃除もするとチップをはずんでくれるのだ。
「えと、あの、喫茶で、シチュー食べた」
 思い出して、私はつばを飲み込む。
 牛肉の入った、赤みの強い茶色のシチュー。最後はパンできれいにすくいとる。十分に色を変えたパンを頬張ったときの、あの幸福感。
「喫茶で?」
 跳ね上げるような声を出し、エレナはふと目を伏せると、緑の襟巻きを抱くように巻き直した。
「あ。まままだ掃除、するところある? 繕いも、できる・よ」
 また、呆れさせた。
 私はそう思って、エレナの家で気になっているところを挙げた。水場のポンプ、窓枠、欄干……ベランダに、階段。
「あのあの、キーシャを締めるなら。言って」
 掃除以外にも、と思ってそう口にすると、突然、エレナが立ち上がった。
 あまりにも力強く、けれども足を踏み出すことはせず。
「あなたって、本当に……」
 エレナは前を見たままつぶやき、しばらく肩を持ち上げていた。彼女はときどきそうやって、独り言をつぶやくときがある。会話の途中にふと視線をそらして。
 私はじっと、静かに待った。まえに割り込んで、嫌な顔をされたことがあるからだ。怖い。なにも言えない。もしかしたら、私への仕事を考えてくれているのかも。いやでも、きっと、もう。
 うつむいて、袖を噛み。
 その手から、不意に包み紙が奪われた。見上げると、鉛筆を持ったエレナが包み紙に何かを書き付けている。それをまた手に握らされた。
「この本を取ってきて」
「あ、うん。うん」
 ため息がこぼれた。良かった、エレナは怒ってなんかいなかったんだ。
 でも、これは掃除の仕事でもない。遊びだ。
 何度目かは忘れたけれ、そんなにたくさんもしていない。
 学校の図書館へ行って、エレナの名前で本を借りてくる遊び。仕事じゃないから、お金は出ない。「たまにはいいでしょ」と、初めてのときにエレナは言った。「いつも仕事ばかりだから」と。
 行くときは私ひとりだけ。
 誰にも見つからないように行って、何も話さない。そして翌日、彼女の家のリビングテーブルに本を置いておく。
 私はこの遊びがそんなに好きではなかった。初めてしてから、色々なことを思い出して、夜を迎えるよりも早くにつらくて悲しい気持ちになる。
 私は洗濯をしたいのだ。掃除をしたいのだ。それで生きているのだから!
 でも、断りの言葉が私の口から出ることはなかった。

 私は学校がきらいだ。
 小学校は卒業したけど、中学校は入学式にすら行っていない――その頃はもう親戚の家にいたから、行かせてもらえなかったのかもしれない。
 本当のお父さんとお母さんは、学校に通いなさいといつも送り迎えしてくれていた。行きたくなかったけど送られるのだから仕方がない。授業を抜け出して、よく図書館で時間をつぶしたっけ。生活指導に呼び出されて、校長先生にも叱られた。
 どうして行きたくなかったんだっけ。
 授業についていけなかった? 先生に馴染めなかった? ――このふたつは、エレナがよく言っていることだ。でも、私の場合は。
 いやな気持ちがふくれあがる。過去なんて、思い出したところでどうしようもない。私は冷たい空気で胸をくらませる。お腹の底までいっぱいに。なんだか、すがすがしい気持ちになるから。
 エレナの学校の図書館は、一般にも公開されている。なんの審査もなく、私でも入ることができた。もちろん、エレナに教えてもらうまで知らなかった。
 本の文字なんてずっと読んでいなかったから、エレナのおつかいもかんたんにいかないだろうと思っていた。それでも、不思議と思い出せる。読んだことのある本もあって、その事実に――こんなに知っている本があるという事実に――私は何度も袖を噛んだ。大半は、知らない本、知らない単語ばかりだけど。
 エレナが頼んでくる本は、かんたんなものが多い。記さなくてもいいくらいに。
 図書館は、いつも暖かい。身体が、ふわっと軽くなるみたい。
 入り口の近くには表紙をこちらに向けて並んでいる本が何冊かあって、私はなにげなくそれらを見た。画用紙に手書きで題目されている――演劇祭の演目に選ばれた本、と。
 その意味を理解したとき、胸がどきどきした。このなかに、エレナが主役を務める劇があるんだ。
 一目して、それとわかる本があった。
 赤毛の子が表紙だったのだ。
 私はそれを手に取って開く。
 でも、すこし読んで、エレナが演じるものとは違うかもしれないと思った。主人公が男の子なのだ。しかも、なんだか幸せなお話ではないような――赤毛を理由に、家族やクラスメイトからのけものにされている――読める単語だけを拾っていく。
 ――なんてかわいそうな子! どうしておまえはそうなの。
 劇中の台詞が、耳元で叫ばれたような気がした。
 本を閉じ、棚に戻す。表紙の子と目が合った。
 言ったのは、誰? 言われたのは……。
 私は逃げるようにその場を後にした。

5劇

 次の日、エレナに会うことはなかった。
 その次の日も、更にその次の日も。
 劇の練習が忙しいか、本を借りて来ないことを怒っているのか、わからない。思い切っておばあさんに訊いてみても、はぐらかされてきちんとした答えは得られなかった。
 もう二度と会えないのかもしれない。
 そう思うと、突然、たとえようのない寂しさにおそわれた。エレナと会えないと、寒くてひもじい時間が長く感じられる。そんな日々が、これからずっとずっと続くのだ。
 年末が近づくにつれ、掃除婦の仕事は私のような子どもにまで回ってこなくなった。配給所で言われたとおり郊外へ行き、小さな施設で幼い子の面倒を見てすごした。
 その子らはみんな、親がいないらしい。私と同じだ。でも、きちんとした施設ではなさそうだ――学校には通えていないようだった――彼らは年齢よりもとても幼く見えて、やっぱり小学校を卒業できた私は幸せだったのだと感じた。
 一番いやだったのは、その子らと街へ行って、歌をうたいながら家々の戸を叩いてまわることだった。そうやってお金や食べ物を恵んでもらわなければならなかったのだ。
 こんなことをするなんて。
 とてもできなくて、常にうつむき、歌には参加しなかった。その子たちに指摘され、責められたとしても。
 そうして夜、誰かの寝相に押しやられながら思い出したのだ。いつか言われた言葉を――ただで恵んでもらうなんて、まっとうな人間がやることじゃないわ。あなたにも家のことをしてもらいますからね。
 そうだ、奥様が言ったのだ。厳しく私に家事を仕込んだ、かがみこめないくらい大きな身体の奥様。そのまえは、家事なんてしたことがなかった。お父さんとお母さんは、遊びや学びに関心のある人だった……。いいのよ、レイラ。本を読んでいなさい。

 またエレナの家で働けるようになったのは、年が明けてから施設の人に何度もお願いをして世話役をとかれ、街に戻ってしばらくしてからのことだった――配給所を通して連絡を受けた――やっと会える! そう思った。でも、エレナの気配すら感じない日々が続いた。
 奥の部屋にいるのかどうか、もはや私にはわからない。ただ、会えないという事実だけが毎日を埋めていく。
 なにかしただろうか。それとも、なにもしていないから?
 ただただ、彼女と並んでベンチに座って時間をすごしたいだけなのに。
 自分でもおかしいとはわかっていた。毎晩のように、この存在を世界中から消して安らぎを得ていながら、こんなに会いたくて話したくて仕方がないなんて。
 きっと、劇が終わるまでの辛抱だ。私は自分に言い聞かせた。

 ある日、エレナの家で洗濯物を片付けたあと、おばあさんに言われて繕い物をすることになった。
「終わったら、あなたの分もやりなさい」
 そう言って、裁縫箱ともう一つ、鮮やかな花模様が描かれたブリキ缶を置いた。なかはハギレだった。
「え、あの」
「気にすることはないわ、もう使い道のないものなんだから」
「あ、ありがとう……ございます」
 おばあさんはすこし離れた安楽椅子に身を沈めると、眼鏡をかけて新聞を読み始めた。キーシャが、開けたままになっている扉から出てきておばあさんの肩に留まる。
「エレナモ、ヨム?」
「まあ。すっかり覚えられたのね」
 おばあさんが笑う。時々、籠の掃除をしているせいだろう。キーシャはよく、「アナタハダレ?」と言うから。
「わ、私はこれがあるか、ら」
 キーシャに返事をして、針に糸を通した。
 渡された繕いものは、ずいぶんぼろぼろだった。なんだか、いつも洗濯しているものと布の感触や雰囲気がちがう気がする。
 そう思っていると、不意におばあさんが口を開いた。
「あなたに学校のことは話してないのかしら」
 突然だったので、言葉が思いつかず、私はおばあさんの顔を見返しながら考えた。彼女は顎を引き、上目遣いで眼鏡のすきまから私を見ている。
「エレナから聞いてない?」
「あ。あ、はい、あのー、でも学校のことは私、あまり……えと、そう、劇の練習が忙しいって」
「友だちについては?」
 私は手のなかで針に糸を巻き付けたりほどいたりを繰り返す。エレナは学校のことを、なんて話していたっけ。友だち……クラスメイトのこと。
 考えているうちに針で手を突いてしまったらしい。私は声を上げて、布ごと手放してしまった。
「まあまあ、ごめんなさい。いま、救急箱を……」
「だだ大丈夫、血は出てません」
 私は慌てて手を広げて見せ、布を拾い上げて針を確認した。そして、おばあさんがしゃべりだすまえに、口を開いた。
「あの、劇を観に、行けないんですか」
 するとおばあさんは、小さくうなずいた。
「ええ」
「車椅子を、借りれば……、私、押します」
「ありがとう。でも、来ないでと言われているの」
「え?」
 まさか! エレナはそんなふうに言っていただろうか。考える。いや、来てほしいって……でも、足が悪いから、無理だって。
「ほ、本当に、来ないでって?」
「そうよ。恥ずかしいんですって。どんな劇かも教えてくれないの。でも、いま繕ってもらっているもの、それ、衣装なのよ」
 言われて、私は持っている布を広げた。
 吊りズボンにシャツ。それは男の子の服だった。きっと誰かから寄付されたんだろう、ボタンもそろっていなくて、下のほうはなくなっている。これを着た、エレナの姿なんて思い浮かばない。代わりに思い出したのは、図書館で見たあの本の表紙。赤毛の男の子。
「見に、行きませんか、こっそり」
 おばあさんは驚いたふうに目を丸め、そして、愉快そうに身体を揺すった。
「あなたは本当に良い子なのね。それに賢くもある」
 その笑みが、あまりにもエレナを思わせて、いてもたってもいられない。
「私! 私、が、見に行きたいから」
 声が大きくなっていた。
 おばあさんは、静かにひとつ、うなずいた。

 本番のある日、車椅子を借りて、私はおばあさんと学校へ行った。広い舞台のある講堂に入るには、受け付けで名前を書かなくてはならなかった。迷うまえに、おばあさんが私の分を書いてくれた。エレナと同じファーストネームで。
 演目はいくつかあり、目的のものは三番目だった。
「あれが……?」
 久しぶりに見るその姿に、私は息を呑んだ。
 男の子の役を、というのは予想がついていたど、まさかあの長い髪を、耳が見えるほどに切っているなんて!
「嫌がっていたんだけどね」
 おばあさんが隣でささやく。
 私たちがいるのは、車椅子の関係上、端のほうだった。おばあさんは遠眼鏡をして、じっと舞台に視線をそそいでいる。私もそれにならった。
 エレナは、堂々と、でも……彼女の周りにいる子たちは、どうして、小突いたりしているの? 服を引っ張って、転ばせているの? そういう台本なの? 何よりも、その顔に覚えがあった。あのいやな目……私もあの目にさらされていた。ずっとずっと。何度も振り切って、でも、しつこくそれは追いかけてきて。
「だめ……」私は立ち上がっていた。「だめったら」
 こんなところ、来るんじゃなかった。
 出口はどこ?
 椅子の倒れる音がした。おばあさんの声も。なにかが身体にまとわりつく。腕だ、幾本もの腕。ああ、つねられる、ぶたれる、やめてやめてやめて――!
 知らなかった、私、こんなに大きな声が出せたんだ。
 エレナと目が合った気がする。
 白い顔が、化粧のせいか、ますます白くなって。
 舞台の上でスポットライトを浴びて、そして周りの子と同じ目で、じっと私を見ていた。

6熱、そして

 知らないあいだに夜になっていた。おばあさんを家まで送り届けた覚えはある。あまりたくさんは話さず――おはあさんはお礼を言い、私の心配をしてくれたように思う――エレナの帰りは待たなかった。
 それ以来、メザンアパートには足を運んでいない。ザヌーレ通りにも、もう行くことはないだろう。
 疑いようがないほどに、私は彼女のこころからいなくなったのだ。
 違うな。前の状態に戻ったんだ。
 エレナは学校に行って、キーシャに穴を開けられた教科書で授業を受け、おばあさんとお菓子をつくり、夕方はサザに魚の燻製をやる。
 なにも変わることはない。私はエレナにとって、何者でもなかったのだから。
 でも、私にとっての、エレナは……。
 最後に見た姿ばかりがよみがえる。同時に、これまでに受けていた仕打ちを――友だち、先生、それに奥様の、まるでごみを見るかのような目を――思い出して、私は袖を噛んだ。どれだけぼろぼろになっても噛み続けた。でなければ、また、叫びだしてしまいそうだった。
 眠れない夜が続いて、朝、配給所の雪かきを手伝えない。遅く行ってもシチューはさめているか、もう終わっているかだ。もらえる切符も一枚きり。
 だからといって、働いていても、ふとした瞬間に私の意識はあのときに引き戻された。雇い主から、責め立てられた。私はすっかり役立たずになってしまったのだ。
 このまま本当に、いなくなれば楽だろうか。
 世界中の、どこからも。
 広場のベンチで夜を待っているうちに、そのまま眠ることが多くなった。案外、平和に朝を迎えることができる。それを知って、私はますますそこから動かなくなる。
 配給所にも行かない。洗濯婦としても働かない。知らない女の人たちと、一緒に夜を明かすこともない。
 サザは――ここは、ザヌーレ通りの公園ではないのに――気まぐれにやってきて、私の足下を暖かくした。餌なんてないのに。撫でてやりたいけど、手を伸ばす元気なんてなかった。
 目を閉じる。
 私はもう、星を見るほどの力もなくて、往来の音を聞き分けることもできなくて――常に高い笛の音が頭の奥で響いていて――ただただ肌で、陽のめぐりを感じていた。
 そしてまた、足下が暖かくなる。
 サザが来ると、私はいつかエレナに塗ってもらった軟膏を思い出すようになっていた。傷のところだけ暖かく感じるあれは、きっと、優しさだった。
 サザがしきりに身体をこすりつけてきて、ニャアと大きな声で鳴いた――しょうがない、すこしだけ――手を伸ばしながら、縫い付けられたように動かないまぶたを持ち上げる。
 すると目のまえに、ぼんやりとしたひとつの影が、街灯を受けて私に向かって伸びていた。
 濃い緑の襟巻き。短い赤毛の女の子。
 どうして? そう思うと同時に、身体はそこから逃げ出していた。だって私は、彼女の世界からいなくなったのだから!
 立ち上がろうとした足はしびれていて、身体に積もっていた雪をまき散らしながら石畳の上に両手をついた。その両手も、私の体重を支えられない。激しいめまいと、お腹の底を突き上げるような不快感。寒いはずなのに、熱い。なんて重い身体だろう。
 声がもれそうになった。袖を噛もうとするけれど、届かない。エレナが私の手を握っている――私の手は、それを感じることすらもできていない。
「ごめん……ごめんなさい、エレナ」
 意味を成さない声の合間に、やっと、言葉が混ざり始めた。同じ単語を繰り返すだけだけど、それ以外になにも思いつかないのだ。
 どうして黙っているの。エレナ、謝るから、だからどうか、なにか言って。何事もなかったように、また。
「許さない」
 短い声が、耳をふさいだ。
 私は口をつぐむ。袖を噛む。考えるために。
「パパにばれたじゃない。ママにもばれた。ずっとずっと隠してきたのよ。あなた全部台無しにしたのよ」
 淡々と、けれども強い声――不意に、リビングに飾られていた写真を思い出した。幸せそうだったのに、私が全部、台無しにした。じゃあもう許してもらえないのも仕方がない。エレナもきっとあの人たちと同じように、私を痛めつけにきたんだ。
「でもね、レイラ」エレナは続けた。「あなたも怒って良いのよ」
 怒る? どうして?
「私はあなたをずっと、ばかにしていたんだから。文句を言って、不満を言って、良いの」
 瞬間、大きな声が、熱を伴って私の咽喉を大きくふるわせた。袖を噛みたかったけど、エレナがそれを許さない。つよくつよく、腕をつかまれて。いままで噛み殺してきたすべての叫びが、冷気のなかへ、白いもやとなって消えていく。
「あなたは私に鳥がしゃべることを教えてくれた。サザの撫で方を教えてくれた。本の借り方を教えてくれた。シフォンケーキの甘さを、喫茶で食べるシチューのぬくもりを、他にも」
 それなのに、こんなに憎らしかったんだ。
 私は私の前にかがみこんだエレナの胸に、頭をこすりつけた。何度も、何度も。
 もう姿勢をたもっていられない私の背を、エレナがつよく支えている。私はそれに甘んじた。
 頬が冷たくて、でも熱い。痛みを覚える。痛みを感じていることを、覚える。
 エレナはしずかに襟巻きをほどき、私の首に巻き付けた。
 それはとても無造作で、伸びきった髪が、きっと、こぼれているだろうと思った。
(2014.10.20)
覆面作家企画6 改稿

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