ジュリア それは無理なお願いよ。あなたは私から、かけがえのないものを奪った。そう、仇を見るような目であなたを見ても、何も間違いなどないわ。
ルーク かけがえのないもの? あんなの、ただの石だろう。
ジュリア 違うわ。勘違いしないで。ダイアモンドより大切なの。あれは、私の名誉よ。
「名誉よ!」
ルーク役をしていたドロシーが突然叫んだので、私は思わず本から顔を上げて彼女のほうを見た。
「びっくりした。どうしたの、一体」
「あまりにもすてきだったから、復唱したくなったの」
ドロシーは詫びれもなく興奮気味に笑って、本を閉じて胸に抱いた。もうおしまい、ということだろう。気付かなかったが、すでに彼女の家の前であった。
「イザベラのジュリアは、イヴそっくり。いつまでも聴いていたいわ」
「ありがとう。今度は、ドロシーのジュリアも聴かせてね」
日曜学校が終わって教会から家までの間を、私たちは戯曲を声に出して読み合うことが多い。十一月になれば、覆面朗読会――戯曲のワンシーンの配役をその場で決め、即興で読み上げる。誰がどの役をしているかは、役者のみならず、観客にも明かされない――が開催されるせいだ。イヴ・エンゼルが主催する覆面朗読会は大人のためのものであったが、毎回、傍聴席から何人か参加できる。それは完全なるくじ引きで、当たれば子どもであろうとも関係はない。いまはまだ八月で、あと三ヶ月も先の話だけれど、ハロウィンよりも断然楽しみなのであった。
「いつか直接、私宛に招待状が届くようになったらなあ」ドロシーはうっとりと目を閉じた。
「招待状てゆうか、召集礼状みたいなもんらしいけど、ママに言わせれば」
「いいよ、それでも。あの舞台を作るお手伝いなら、したい」
イヴ・エンゼルは、私たちが子どもの頃からおばあさん。このあたりの住人は、みんな、イヴにお世話になっていると言っても良いらしい。何か困ったことがあったらイヴを呼べ。そんなふうに教えられてきたし、実際、ひとたび彼女が揉め事の現場にやってきたら、どんな大きな身体をしたおじさんでも大人しくなる。
かと言って、イヴ自身はとても小さい。
迫力があるのは、その声だった。
「今日、教会には来てなかったね」
ふと思いついて、私は言った。
「ママから聞いたんだけど、旅行に行ってるんだって」
「そっか〜」
来年から私もハイ・スクールだ。この街を出なければならない。日曜学校に通う時間もなくなるだろう。なるべく長く、イヴの賛美歌や聖書を朗読する声を聴いていたい。
こんな調子でドロシーの家の前でおしゃべりを楽しんでいると、突然、玄関からドロシーのママが飛び出して来た。ドロシーと同じ小麦色の長い髪は相変わらず手入れが行き届いていて、天然パーマを放置している私のママと交換してほしい、といつも思う。
けれど、ドロシーのママは、どこか様子がおかしかった。
いつもなら挨拶をしてくれるのに、私たちの顔を見た途端、泣き出してしまったのだ。
驚いた私たちは、どちらからともなくドロシーのママに駆け寄った。ドロシーは抱きつき、どうしたの、どうしたのと繰り返した。
「あのね、いま、電話があったのだけれどね」
ドロシーのママは、口元を覆いながら小さな声を絞り出す。
どこか嫌な予感を抱きながら、私は一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。
「イヴ・エンゼルが、亡くなったのですって……」
旅先で病に倒れ、搬送先の病院でそのまま帰らぬ人となったらしい。
持病があり、薬をいつも飲んでいることは、みんな知っていた。
六十七歳。まだ早い、と惜しむ声が、葬儀では繰り返し聞かれた。
参列者はとても多かったため、私のような小娘は、その顔を見ることすら叶わなかった。同じように親たちに連れられて来たのであろう子どもたちと混ざって、喪服に身を包んだ大人たちが囲う真っ白な棺を、遠くから眺めることしか出来なかった。眺めながら、棺の中に、本当に彼女が横たわっているのかを疑問に思った。いまにもどこからか現れて、あの朗らかで深みのある声を聞かせてくれるのではないか。彼女の声を思い出しながら、そうなることを、おそらく願っていた。夕闇が迫る墓場で、私は何度も何度も、そう、イヴが死んだという事実を曖昧なものとする作業を繰り返していたのだ。
そんな私の頭の中を、鋭く切り裂くものがあった。
ドロシーの泣き声だ。
彼女はいつの間にか大人の輪の中に混ざって、誰よりも大きな声を上げて泣いていた。咽喉が破れるのではないかと思うほどであった。
それから私たちは、あれほど教会通いしていたのが嘘のように行かなくなり、その代わり道端で会えば涙した。十一月の覆面朗読会は中止になることはわかっていたから、もう戯曲を読むこともなかった。交わすのはイヴの思い出ばかりになっていた。
十二月が終わり、新年を迎えた頃、その朗報は突然もたらされた。
学校から帰って来たとき、私はいつも、ポストを覗く。その中に、見たことのある封緘がされた手紙があったのだ。
「ママ!」
叫びながらリビングのソファに鞄を放り、ペーパーナイフで封を切る。
「どうしたの、イザベラ」
「覆面朗読会だわ!」
中から手紙を取り出して、文面をママに向けて広げた。
紫色をした封緘は、イヴがいつも朗読会の招待状を送るときに使っていたものだ。
「まあ……」
ママは目も口も丸くして、パンをスライスする作業を止めた。
「三月の暮れ、イヴ・エンゼル夫人の誕生日にて、夫人を悼む最後の朗読会を開催します。朗読会でメインで役者をしていた数々の著名人を呼ぶことは叶いませんので、夫人と同じ土地に住み、夫人にお世話になった者たちで行う予定でいます。場所は街唯一の教会を借りることが出来ました。――」
声に出して読み上げながら、私は次第に早口になり、けれども噛むことは一切なかった。イヴの声が、私の中で目覚めるようであった。彼女ならこう抑揚をつけて、こんなふうに読み上げるだろう。そう考えながら、最後までママの前で読んだ。
翌週から、ママは準備に追われた。私も時間のある限りは手伝い、日曜になれば、再びドロシーと一緒に教会へ通った。自分が使う覆面も用意した。傍聴席の覆面は任意だけれど、いつも、新しいものを仕立てている。
「前回、イヴが使っていたものとそっくりにするわ」
「私もそうする!」
ドロシーと言い合って、二人で試行錯誤しながら、色も形も似せて作った。同じことを考えている人は他にもいて、今回の覆面は青みがかった紫が多くなりそうだ。
使う戯曲は、イヴが若い頃に書いた「ジュリアとルークの石」に決まった。いや、きっと、決まっていたのだろう。お互いを信頼し合っているはずの二人だが、ルークがジュリアにダイアモンドの指輪を贈ったことを皮切りに、すこしずつ歪んだものになってゆく、という短い物語である。何年もかけて書き直されたその戯曲は、この覆面朗読会で度々使われるほどの定番で、シェイクスピアよりもお馴染みだ。
そして覆面朗読会当日、私たちは一番良いドレスを身にまとい、教会へ出かけた。あふれんばかりの人たちが集まっており、背中合わせの椅子が部屋の中心に置かれている。椅子と椅子の間には暗幕が張られ、役者は互いに誰がどこに座っているかがわからない。椅子の上には台本があり、演じる役の名前に線が引かれている、というスタイルだ。覆面朗読会の覆面は、誰がどの役をやるのかわからないのはもちろん、役者自身も席につくまでどの役を演じるかわからないという二重の意味を持っている。
イヴを悼む祈りと賛美歌を終え、今回、役を演じる人たちの名前が呼ばれた。
みな、中心の椅子が並んだところへ行き、お辞儀をする。見知ったおじさんやおばさんばかりで、なんだか面白い。
「今回は――」
司会者が話し始める。
「傍聴席から、ひとり、ジュリアの役をやってもらいます」
会場に起こるどよめき。
私は声を発しない代わりに、つばを飲み込んだ。
たったひとり。でも、いつもより確率は高いはずだ。もしかしたら……。
鼓動がどんどん高くなり、寒くもないのに身体が震えだす。呼吸がのぼり、覆面の下に汗が溜まる。選ばれてもいないのに、司会者よりも椅子ばかりに目がいった。あそこまで冷静に歩けるだろうかと、考えていたのだ。それでも耳は必死に司会者の声を追う。自分の鼓動が邪魔だ。早く楽になりたい。早く番号を呼んで欲しい。私の席とは違う番号を。早く。
「百二番! 百二番です。該当者は、前へ――」
ぎゅうっと右腕がつかまれた。
ドロシーだ。
顔をそちらへ向けると、覆面から覗いた二つの目が、まるで睨んでいるように見開いていた。薄暗い中でも色がわかるくらいの唇が、薄く開いて囁く。
「イザベラ……」
ほとんど音になっていなかったけれど、たしかに私の名を呼んだ。そう、百二番は、間違いなく私の番号。振り返って、背もたれに貼られた番号を確認する。百二。
ドロシーも緊張しているのだろう。その切迫した瞳を見るとすこし冷静になって、すこし息を吐くと、薄く微笑み返して頷いた。大丈夫、ドロシーと何度も読み合った戯曲なのだから、心配しなくても大丈夫よ。そんなふうに思いながら。
しかし前へ出ようとする私の腕を、ドロシーは強く握ったままだった。緩むことの無い力に手を重ね、再び視線を交わす。
「お願い」
聞こえてきたのは、呼吸の音だけなのに、たしかに彼女がそう発したとわかった。
ああ……。
そういうことだったんだ。
彼女は、譲ってくれと言っているのだ、あの席を。
「お願い、イザベラ」
私は何と答えていいかわからなかった。圧迫された腕は痛く、震えどころか痺れまで感じ始めた。
夢にまで見た席。何度も繰り返し呼んだ戯曲。憧れの声を真似て、ひたすらに追いかけた。
それは、ドロシーも同じ。
葬儀での、彼女の泣き叫ぶ声が蘇る。
目を閉じ、腕から力を抜いた。
それだけで伝わったのだろう、途端にドロシーはドレスの裾を引き上げると、前へ駆け出した。
どこか呆然とした様子で、私はメイン・イベントである朗読会を過ごした。耳に入ってくるドロシーの声はとても褒めたものではなく、おそらく緊張していたのだろう、普段なら読み流すところで噛み、気の強いジュリアが頼りなげであることに、場は幾度か笑いに包まれたけれど、私にとってはひたすらに不愉快でしかなかった。
その後の食会で、話しかけてくるドロシーを避けてしまった私を、誰が怒れるだろう。
イヴなら、なんと諭してくれるだろう。
ハイ・スクールが始まるまでの半年間を、耐えるように過ごした。九月からは街を出て、ドロシーとは別々のハイ・スクールへ進み、互いに違う寮へ入った。もう会うこともないだろう。そう考えていた。週末も長期休暇のときも、家には帰らないようにしたし、ママが教えてくれる街の近況も聞き流した。
戯曲も捨ててしまった。それなのに、耳をすませば、いつでもイヴの声が聞こえてくる。ハイ・スクールへ行って一年が経つ頃、私は思い出せる限り彼らの問答を書き出し、再び、イヴの抑揚を追いかけた。一音一音、たしかめるように、何度でも。
あのとき、ジュリアを演じたのがドロシーではなく私だったら、会場は笑いではなく涙に包まれたはずだ。イヴの演技をこれ以上真似できる人は、他にいないのだから。
彼女が私から奪ったものは、きっと、名誉だった。
でも、それが一体、何だと言うのだろう……。
ジュリアは、物語の終盤でルークを許している。捨ててしまった石は戻らないし、似たような石を見つけたわけでもない。一度は妖精に頼んでみたりもするが、それでも同じ石は手に入らない。必死に取り繕うとするルークを見かねて、ジュリアは、あの石を持っていた、という過去を大切に思うことにしたのだ。
どうしてジュリアはそんな感情になれたのだろう。思い出しても、そのきっかけとなるシーンが見当たらない。
またドロシーと読み合える日が来るかしら。
私は次第にそう思うようになっていた。
凝り固まった過去は、物語のようにはならないとわかっていても。
イヴが死んでから、何度目の夏だろう。
「イザベラ、手紙が来てるわよ」
ルーム・シェアしている友人が、リビングから私を呼んだ。
この九月から、大学に通うことになっている。引越しが忙しくてあまり家に帰れなかったから、きっとそのことについて、ママが手紙をよこしたのだろう。私は階段を降りて、リビングのテーブルに置いてある私宛の封筒を手に取った。
裏返して、はっとする。
紫色の封緘――
差出人は無かったけれど、文字のクセには覚えがあった。
――覆面朗読会を始めましょう。
そんな一文が目に飛び込む。
‘日曜学校でイヴに賛美歌を習いながらも、彼女の顔を見ることの叶わなかった子どもたちを集めました。覆面は持参のこと。心よりお待ちしております。あなたのジュリアでなければ、意味がありません。私はようやく、そのことに気付いたのです。イヴの命日、あの教会で、いつも交わしていたあの戯曲と共に。かけがえのないイザベラへ、愛を込めて’
「ちょっと、どうしたの、イザベラ?」
グラスを手にキッチンから戻ってきた友人が、驚いた声を上げる。
「あ……」
変なの。知らずに涙がこぼれていたみたい。
友人はグラスをテーブルに置き、私の背中を撫でた。
「誰から? なんの知らせ?」
「大丈夫。嬉しいことよ」
親切な手を優しく押し返して、涙を拭って笑顔をつくる。
固まって沈んでいたものが、すっと溶けていくようだった。
「幼馴染から、とてもハッピーな招待状」
私の中の、理解できなかったジュリアが、音を立てて色づき始める。
そうして私は、すこし遅れた帰省の準備を始めたのだった。